一、忠純の性、老いて益々篤し
孫権が践祚した時、呉への使者に立った陳震伝。
1.
陳震字孝起,南陽人也。先主領荊州牧,闢為從事,部諸郡,隨先主入蜀。蜀既定,為蜀郡北部都尉,因易郡名,為汶山太守,轉在犍為。建興三年,入拜尚書,遷尚書令,奉命使吳。七年,孫權稱尊號,以震為衛尉,賀權踐阼,諸葛亮與兄瑾書曰:「孝起忠純之性,老而益篤,及其贊述東西,歡樂和合,有可貴者。」震入吳界,移關候曰:東之與西,驛使往來,冠蓋相望,申盟初好,日新其事。東尊應保聖祚,告燎受符,剖判土宇,天下響應,各有所歸。於此時也,以同心討賊,則何寇不滅哉!西朝君臣,引領欣賴。震以不才,得充下使,奉聘敘好,踐界踴躍,入則如歸。獻子適魯,犯其山諱,春秋譏之。望必啟告,使行人睦焉。即日張旍誥眾,各自約誓。順流漂疾,國典異制,懼或有違,幸必斟誨,示其所宜。
(訳)
陳震は字を孝起、南陽の人である。
先主は荊州牧を兼領すると
召辟して従事に任命し
諸郡を部べさせた。
先主の入蜀に隨い、
蜀が平定されたあと
蜀郡北部都尉となり、
郡の改名に因って汶山太守となり
犍為に転出した。
建興三年(225)、
入朝して尚書に拝され
尚書令に遷り
命を奉じて呉へ使いした。
七年(229)、孫権が尊号を称すると
陳震を衛尉として
孫権の践祚を祝賀させた。
諸葛亮は兄の諸葛瑾に
書状を与えて言った。
「孝起の忠実、純粋なる性質は
老いて益々篤くなり、
東西を称述して
歓楽を和合させる上で
貴ぶべき者にございます」
陳震は呉の界域に入ると
関候(関の役人)に
移文を通達して言った。
「東と西は駅使が往来し
冠蓋(官吏)は互いを望見し合い
当初の友好を締結、盟約して
日に日にその関係が
刷新されつつあります。
東尊(孫権)は広く聖祚を保たれ、
符命を受けられました事を
柴を焚いて天にご報告されますと
天下は呼応し、各々が
帰趨する所を得る事となりました。
この時に於かれまして
心を同じくして賊を討たば
どうして寇(賊)が
滅ばぬ事がございましょうや。
西朝(蜀漢)の君臣は
首を伸ばして欣喜し
(陛下を)頼みとしております。
震は不才を以て
ご使者を担当する事となりましたが
聘問を奉り、友好の意を申し上げます。
国境を践むに勇躍し、
入国した際には(母国に)
帰ったかの如くにございました。
范献子は魯に向かった際
その山の諱を犯しましたが
春秋はこの事を誹譏しております。
(うっかり呉でやらかさぬよう)
なにとぞご教示を願います、
行人(使者)が睦めるよう
お図らいくださいませ。
即日に旗を張って衆人に誥げ
各自に誓約させます。
流れに順い
漂疾(迅速、慌しい)でございましたが
(呉と蜀の)国典は
制度が異なっておりまして
或いは間違いが有った
のではないかと恐懼しております。
なにとぞご斟酌いただき
適宜ご教示いただければ
幸いにございます」
(註釈)
陳震は南陽の人。
黄忠、魏延、鄧芝、李厳
来敏、胡済、呂乂、董厥、郭攸之
王連、許慈、劉邕、張存、傅肜など、
劉備陣営に南陽出身者は結構多い。
荊州を領した劉備から召辟を受け
諸郡の管理にあたる。
劉備の入蜀に従い、
蜀郡属国都尉、汶山太守。
後漢書の「南蠻西南夷列伝」によると
冉駹夷は武帝が開拓した所で
元鼎六年(前111の庚午の日)
に「汶山郡」となった。
宣帝の地節三年
(前67の甲寅の日)に、
蛮夷の人々が郡を立てたことで
賦が重くなったので
そこで宣帝は、
蜀郡を省いたり併せたりして
「北部都尉」を設けた。
この間およそ45年。
常璩「華陽国志」によると
汶山郡は前漢の武帝の
元封四年(前107)に置かれた。
本来は蜀軍北部(冉駹)都尉。
旧くは八つの県が属しており
戸数は二十五万。
東は蜀郡、南は漢嘉郡、
北は陰平郡と隣接する。
色々な薬草や香草が採れるが
土地が硬く、塩気を含んでいるので
五穀を育てるには適さず
ただ麥のみを植えている。
(他にも色々書いてあるが、略)
汶山郡はたびたび廃止され
また郡に戻ったりしているようだ。
孫権が即位すると、
陳震が祝賀の使者に立つ。
陳震の年齢は、この時点で
諸葛亮に「老」って言われてるので
少なくとも50歳は過ぎているだろう。
劉備、曹丕の侵攻を退け
228年の石亭の戦役でも
大勝を収めた孫呉。
(曹丕が死んだ時に江夏を攻めて
文聘に返り討ちにされたのは内緒だ)
孫権は齢47にして
ついに皇帝に即位する。
曹丕の即位から9年、
劉備の即位から8年後の事だった。
魏は漢から正式な禅譲を受け
蜀漢は劉姓が漢再興を名目に
打ち建てた国だけど
呉はほんと大義名分がない。
国力が最も劣る蜀としては
「ふざけんなよ孫権、
これで同盟はご破産じゃ…」
とも言えないので、慶賀した。
光武帝の時代にも
称帝した人物は何人かいたが
例外なく短期間で滅んでいる。
皇帝が三人もいて、各々が
根を深く下ろしちゃってる
というのは、今までにない事態だ。
范献子は、士鞅の方が伝わるかも。
春秋戦国時代の晋の人。
彼が魯の諱を犯す話は
「国語」の晋語、九にある。
「范献子聘于鲁,问具山、敖山,鲁人以其乡对。献子曰:“不为具、敖乎?”对曰:“先君献、武之讳也。”献子归,遍戒其所知曰:“人不可以不学。吾适 鲁而名其二讳,为笑焉,唯不学也。人之有学也,犹木之有枝叶也。木有枝叶, 犹庇荫人,而况君子之学乎?”」
范献子が魯を聘問した際
具山、敖山について問うと
魯の人は(山の名前を言わず)
その郷の名前で答えた。
范献子が、
「具、敖とは言わんのですか?」
と訊ねると、
「先君の献公、武公の諱にございます」
との答えが返ってきた。
范献子は帰国すると、
その旧知を遍く戒めた。
「人は学ばなければならない。
私は魯に行きながら
その二つの諱を知らず、
笑われてしまった。
ただ、不学だったからだ。
人に学あるは、さながら
木に枝葉があるようなものだろう。
木に枝葉があれば
陰で人を庇護できる、
況してや君子であれば
なおさら学ばねばなるまい」
確かに赤っ恥をかいたけど
重々反省してるからえらい。




