註三、泣いて馬謖を斬る
註3.
襄陽記曰:謖臨終與亮書曰:「明公視謖猶子,謖視明公猶父,原深惟殛鯀興禹之義,使平生之交不虧於此,謖雖死無恨於黃壤也。」於時十萬之眾為之垂涕。亮自臨祭,待其遺孤若平生。蔣琬後詣漢中,謂亮曰:「昔楚殺得臣,然後文公喜可知也。天下未定而戮智計之士,豈不惜乎!」亮流涕曰:「孫武所以能製勝於天下者,用法明也。是以楊乾亂法,魏絳戮其僕。四海分裂,兵交方始,若復廢法,何用討賊邪!」習鑿齒曰:諸葛亮之不能兼上國也,豈不宜哉!夫晉人規林父之後濟,故廢法而收功;楚成闇得臣之益己,故殺之以重敗。今蜀僻陋一方,才少上國,而殺其俊傑,退收駑下之用,明法勝才,不師三敗之道,將以成業,不亦難乎!且先主誡謖之不可大用,豈不謂其非才也?亮受誡而不獲奉承,明謖之難廢也。為天下宰匠,欲大收物之力,而不量才節任,隨器付業;知之大過,則違明主之誡,裁之失中,即殺有益之人,難乎其可與言智者也。
(訳)
襄陽記にいう、
馬謖は最期に臨んで
諸葛亮に書簡を与えて述べた。
「明公は謖をまるで子のように視なし
謖も明公をまるで父のように視ておりました。
願わくば深く鯀を殛(誅)して
禹の義を興す事をお考えになり、
平生の交をここに於いて
虧(欠)かかさずにおいてくだされば
謖は死しても黄壤(黄泉)にて
お恨みはいたしませぬ」
この時、十万の衆が
彼の為に涙を流した。
諸葛亮は自ら祭祀に臨んで
その遺児を平生の若くに待遇した。
蒋琬が後に漢中を詣でた際
諸葛亮に言った。
「昔、楚が成得臣を殺した際
然る後の(晋の)文公の喜びは
察知できるほどでした。
天下が定まっておらぬのに
智計の士を誅戮なさるとは、
どうして惜しまずにおられましょう」
諸葛亮は流涕して言った。
「孫武が天下を制服し
成功を得られたのは
法の適用が明確であったからだ。
これにより、楊乾(干)が法を乱すと
魏絳はその下僕を誅戮した。
四海が分裂し、兵の行き交いが
まさに始まらんとしておるのに
もしまた法を廃せば
どうやって賊を討伐するのだ!」
習鑿歯はいう、
諸葛亮が上国(魏)を
兼併できなかった事が
どうして不適当と言えようか
(当然である)。
そも晋の人は荀林父の
後の成功を規ったために
法を廃して功勲を収めたのである。
楚の成王は成得臣が
己を益するには闇いと考えたため
彼を殺して敗けを重ねる事となった。
今、蜀は僻陋のいち地方で
才子は上国よりも少ないのに
その俊傑を殺し、
逆に駑下の起用を収め、
法が才に勝る事を明らかとし
※三敗の道を師としないのでは
(※曹沫が負けを重ねても魯は使い続けた)
事業を成就させようとしても
やはり難しいのではなかろうか。
しかも、先主が馬謖を
重用してはならないと誡めたのは
どうして才能のなきことを
言っていないといえようか。
諸葛亮が誡めを受けたのに
奉呈を獲る(聴き入れる)
事がなかったのは、
明らかに馬謖を廃し難いと
考えていたからである。
天下の宰匠(宰相)となり
大いに人物の力を収集しようとしながら
才を量って任用を調節し
器量に隨って業務を付託する事がなかった。
これを知るに大きな過ちをおかして
則ち明主の誡めを違えてしまい、
これを裁くに妥当さを欠いて
即ち有益な人物を殺す事になった。
ともに智について
語り合える者ような者とは
(得)難いものである。
(注釈)
【成得臣】
成得臣は字を子玉、
春秋戦国時代の楚の将。
文公が成得臣の死に喜んだ逸話は
史記の晋世家、文公の五年にあります。
『晉焚楚軍,火數日不息,文公嘆。左右曰:「勝楚而君猶憂,何?』文公曰:『吾聞能戰勝安者唯聖人,是以懼。且子玉猶在,庸可喜乎!』子玉之敗而歸,楚成王怒其不用其言,貪與晉戰,讓責子玉,子玉自殺。晉文公曰:『我擊其外,楚誅其內,內外相應。』於是乃喜」
(訳)
晋文公の五年、城濮の戦いで
晋の楚の軍勢を焼き払ったが、
文公は嘆息している。
左右の者が、
「楚に勝ったのになおも
憂えておられるのは何故です」
と訊ねると、文公は答えた。
「戦に勝って安堵していられるのは
聖人のみだと私は聞いておる、
ゆえに懼れていたのだ。
しかも子玉(成得臣)が
いまだ健在であり
どうして喜べよう」
子玉が敗れて帰還すると
楚の成王は、彼が自身の言葉に従わず
晋との戦を貪った事に怒って
子玉を責譲した。
子玉は自殺してしまった。
「我がその外を撃ち、
楚はその内を誅して
内外で互いに応じている」
と、晋の文公は言い、喜んだ。
蒋琬は、有能な人物を殺す事が
いかに敵国を利するか、と
諸葛亮に言いたかったのだ。
【孫武】
孫武は史記の列伝五に登場。
呉王闔閭に仕えた人で、
軍紀に違反したとあれば
主君の寵姫であろうと斬る逸話が
載せられています。
【魏絳】
魏絳は史記の魏世家に登場、
「魏絳事晉悼公。悼公三年,會諸侯。悼公弟楊干亂行,魏絳僇辱楊干。悼公怒曰:『合諸侯以爲榮,今辱吾弟!』將誅魏絳。或説悼公,悼公止。卒任魏絳政,使和戎、翟,戎、翟親附。悼公之十一年,曰:『自吾用魏絳,八年之中,九合諸侯,戎、翟和,子之力也。』賜之樂,三讓,然後受之。徙治安邑。魏絳卒,諡爲昭子。生魏嬴。嬴生魏獻子。
悼公の弟の楊干が列を乱したため
魏絳は楊干を刑戮した。
(左伝だと、楊干本人ではなく
楊干の御者を殺した事になっている)
諸葛亮は「法を用いるに明」
であった例として二人を挙げた。
孫堅が、董卓を殺すべきだと
張温に進言した際も
魏絳と司馬穰苴を引き合いに出している。
【三敗の道】
史記の刺客列伝に登場する
曹沫に関連。
左氏伝、穀梁伝だと「曹劌」。
公羊伝だと単純に「曹子」。
史記の曹沫は武勇によって
魯に仕えており、
魯と斉が柯で和睦を結ぼうとした際に
曹沫は匕首を斉の桓公に突きつけて
「魯から奪った地を返せ」と脅迫し
桓公の承諾を得た。
後から怒りがわいてきた桓公は
約束を反故にしようとするが、
管仲に反対され、きっちり履行。
この事で諸侯の信頼を得て
却って曹沫が桓公の覇道を
アシストしたような形になってしまった。
この時、
「於是遂與曹沬三敗所亡地於魯」
と書かれており、曹沫が斉に
三回敗れてその地を奪われた事と
荘公がそれでも彼を
起用し続けた事を伝えている。
習鑿歯が「三敗之道」と
言っているのはこのことです。
左伝だと、曹劌は
魯の荘公から将軍に抜擢され
長勺の戦いに参加。
太鼓の回数で士気をコントロールし
轍や旗の様子を見て
伏兵がいない事を見抜くなど
要所で冴えた判断を見せた。
(左伝だと魯が斉を押してるように見える)
【荀林父】
荀林父は春秋戦国時代の晋の人。
史記の晋世家等に出てくる。
父の荀息は献公時代の宰相だったが
三人の太子がいるにも関わらず
驪姫の子を擁立しようとして失脚。
子の文公の時代になって
(62歳の遅咲き君主)
荀林父は「中行」の官に任じられ
これを姓とした。一族に勢いが戻った。
桓と諡されたので
「中行桓子」と書かれてる時もある。
個人的な馬良と馬謖評↓
・馬良
戦闘 ★★★★ 4
文官。
戦略 ★★★★★★ 6
白眉最も良し。
内政 ★★★★★★ 6
孫呉との使者に立った。
武陵蛮を安撫し味方につけた。
人格 ★★★★★★ 6
造次の華やかさはないが
物事を全うする(自称)。
姜維とか習禎には劣るが
高い名声を持つ。
・馬謖
戦闘 ★★★★ 4
街亭では経験不足を露呈。
しかも職務放棄して逃げちゃったっぽいのが
大変いただけない。
戦の機微を学ぶチャンスは
二度と与えられなかった。
戦略 ★★★★★ 5
才知は人に過ぎたるように見えて
実はなかった。
内政 ★★★★★ 5
綿竹・成都令、越巂太守だったが
そこでの働きぶりも
あの劉備の評言に
繋がってると思うと…
人格 ★★★★ 4
逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ
逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ…
(シンジ君
やっぱり逃げよ。
我々と変わらない
普通の人だよね。
ともに30代で亡くなってしまった
襄陽の俊英、馬兄弟でした。




