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淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第九、劉巴伝
554/603

二・註四、劉備に(仕方なく)帰順/益州牧との縁

2.

巴復從交阯至蜀。俄而先主定益州,巴辭謝罪負,先主不責。而諸葛孔明數稱薦之,先主闢為左將軍西曹掾。

(訳)

劉巴はまた交阯から蜀へと至った。

俄かに先主が益州を平定すると

劉巴は過失について謝罪したが

先主は責めなかった。


諸葛孔明がたびたび

彼を称えて推薦すると

先主は召辟して左将軍西曹掾とした。


註4.

零陵先賢傳曰:巴入交阯,更姓為張。與交阯太守士燮計議不合,乃由牂牁道去。為益州郡所拘留,太守欲殺之。主簿曰:「此非常人,不可殺也。」主簿請自送至州,見益州牧劉璋,璋父焉昔為巴父祥所舉孝廉,見巴驚喜,每大事輒以諮訪。臣松之案:劉焉在漢靈帝時已經宗正太常,出為益州牧,祥始以孫堅作長沙時為江夏太守,不得舉焉為孝廉,明也。

(訳)

零陵先賢伝にいう、

劉巴は交阯こうしに入ると

姓を「張」に改めた。


交阯太守の士燮と

謀議するも、そりが合わず

かくて牂牁しょうか道を経由して去っていった。


益州郡のために拘留される所となり

太守が彼を殺そうとすると

主簿がこう言った。


「これは常人ではない、

殺してはなりません」


主簿は自身で送り届ける事を願い

州へ至って、(劉巴は)

益州牧の劉璋と見えた。


劉璋の父、劉焉りゅうえん

昔、劉巴の父の劉祥を

孝廉に推挙した事があり、

(劉璋は)劉巴と見えると驚喜して

大事があるたびに諮問した。


わたくし松之が勘案するに

劉焉は、後漢の霊帝の時代には

已に宗正そうせい太常たいじょうを経ており

転出して益州牧となったのだ。


劉祥は孫堅そんけん長沙ちょうさ太守であった当初

江夏こうか太守であったので

劉焉から孝廉に推挙されるなど

あり得ない事は明白である。


(註釈)

陳寿の本文は本当に簡潔です。

史料が全然なかったのかな。


劉備が荊南を平定したあたりで

交州へ逃げ、戻ってきて

「俄而先主定益州」だとすると

劉巴は4〜5年くらい交州にいた事になる。


210年頃になると、交阯に

孫権(歩騭ほしつ)の手が伸びてくる。


士燮ししょうが生きてるうちは、

孫権も強引にはこないだろうけど

70過ぎの老人だから

いつ死んでもおかしくない。

(実際90まで生きるんだけど)


孫呉の支配体制が固まる前に

逃げよう…ってなったとか。



零陵先賢伝では、

士燮との仲がうまくいってない様子。

交阯に隣接している牂牁郡を経由して

益州へ逃げた。


「為益州郡所拘留,太守欲殺之」

で、太守に拘束される。

時期的に益州太守は董和とうか

牂牁太守は不明。


父、劉祥りゅうしょう劉焉りゅうえんに推挙された縁で

劉璋りゅうしょうに歓迎された。

(裴松之先生はありえない、と断ずる)



劉焉は江夏こうか竟陵(きょうりょう)県の人。

蜀書のトップバッターを飾るほか

後漢書の75巻に

袁術えんじゅつ呂布りょふと一緒に入っている。


前漢の魯の恭王の後裔で、

後漢の章帝の

元和年間(84〜87)に

竟陵に改封され、庶流が

ここに居を構えたのだという。


少くして州郡に出仕し

宗族である事から

中郎(後漢書だと郎中)に任じられたが

師匠の祝公の喪に服すため

官職を去った。


その後、※陽城ようじょう山に住み、

学を積んで人々に教え、

賢良、方正に推挙されて

司徒府から召辟を受け

洛陽らくよう令、冀州刺史、南陽なんよう太守、

宗正、太常を歴任した。


※陽城山は「水経注」に

穎川えいせんの陽城山」

「陽城県の東北にある…」

との記述がありました。


劉焉の師の「祝公」は、

桓帝期の司徒の祝恬しゅくてんの事かな。

「(延喜三年=160)六月辛丑,司徒祝恬薨」

とあり、

劉焉は130年代後半から

140年代初頭くらいの

生まれと推測できる。


168年からは霊帝の時代。

顕官を買えるようになった影響からか

三公がコロコロ入れ替わっており、

劉焉を召辟した「司徒」が

誰なのかはわからない。


184年2月に黄巾の乱。

3月の庚子の日に

南陽の黄巾、張曼成ちょうまんせい

郡守の褚貢ちょこうを殺した。

6月に南陽太守の秦頡しんきつ

張曼成を斬った。


186年2月に

江夏兵の趙慈ちょうじが反乱を起こし

南陽太守の秦頡が殺され、

羊続ようぞくが南陽太守になり

趙慈を討伐した。

(※羊祜ようこの祖父)

189年に羊続が太尉に。


190年冬には

孫堅が南陽太守の張諮を殺した。

反乱に巻き込まれて

江夏太守の劉祥が死んだ。



当時の荊州、修羅の国すぎるだろ…。


これを見た感じ、

劉焉が南陽太守だったのは

光和年間以前。


しばらく豫州穎川郡の陽城山に

住んでたようだから、

劉祥を孝廉に推挙できるタイミングが

あったとしたら、ここしかない。

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