一・註一、二劉に仕えず/ 父劉祥と荊南の鸞鳳
本当は曹操に仕えたい劉巴伝。
1.
劉巴字子初,零陵烝陽人也。少知名,荊州牧劉表連闢,及舉茂才,皆不就。表卒,曹公徵荊州。先主奔江南,荊、楚群士從之如雲,而巴北詣曹公。曹公闢為掾,使招納長沙、零陵、桂陽。會先主略有三郡,巴不得反使,遂遠適交阯,先主深以為恨。
(訳)
劉巴は字を子初、
零陵郡烝陽県の人である。
少くして名を知られ
荊州牧の劉表が
何度も召辟し、茂才にも推挙したが
いずれにも就任しなかった。
劉表が卒し、曹公が荊州を征すると
先主は江南に奔り、
荊、楚の士たちが雲の如くに
これに従ったが
劉巴は北の曹公を詣でた。
曹公は召辟して掾とし、
長沙、零陵、桂陽を招き入れさせた。
折しも先主が攻略して
三郡(長沙、零陵、桂陽)を
所有した所であり、
劉巴は復命する事ができず
結局遠方の交阯へむかった。
先主は深くこの事を悔恨した。
註1.
零陵先賢傳曰:巴祖父曜,蒼梧太守。父祥,江夏太守、蕩寇將軍。時孫堅舉兵討董卓,以南陽太守張諮不給軍糧,殺之。祥與同心,南陽士民由此怨祥,舉兵攻之,與戰,敗亡。劉表亦素不善祥,拘巴,欲殺之,數遣祥故所親信人密詐謂巴曰:「劉牧欲相危害,可相隨逃之。」如此再三,巴輒不應。具以報表,表乃不殺巴。年十八,郡署戶曹史主記主簿。劉先(主)欲遣週不疑就巴學,巴答曰:「昔遊荊北,時涉師門,記問之學,不足紀名,內無楊朱守靜之術,外無墨翟務時之風,猶天之南箕,虛而不用。賜書乃欲令賢甥摧鸞鳳之艷,遊燕雀之宇,將何以啟明之哉?愧於‘有若無,實若虛’,何以堪之!」
(訳)
零陵先賢伝にいう、
劉巴の祖父の劉曜は蒼梧太守。
父の劉祥は江夏太守、蕩寇将軍。
当時、孫堅が董卓討伐の兵を挙げた際
南陽太守の張諮が
軍糧を供給しなかった事から、
彼を殺した。
劉祥は(孫堅と)心を同じくしており、
南陽の人士、民衆は
この事に由り劉祥を怨んで
兵を挙げてこれを攻めた。
(劉祥は)戦ったが、敗亡した。
劉表もまた劉祥とは
もとから親善ではなかったため
劉巴を拘束してこれを殺そうと考え、
劉祥が信任していた者を幾度か派遣し
密かに劉巴に対して詐りを述べさせた。
「劉牧が危害を加えようとしている、
あい隨って逃げるべきだ」
このような行為が再三に及ぶも
劉巴はその都度応じなかった(断った)。
(劉祥が信任していた者が)
具に劉表に報告すると、
劉表はついに劉巴を殺さなかった。
十八歳のとき、
郡から戸曹史主記主簿に署された。
劉先が週(周)不疑を
劉巴に就かせ、学ばせようとすると、
劉巴は答えて言った。
「昔、荊北にて遊んだ際に
師門(色んな先生の門戸)を
渉りましたが、記問の学であり、
名を記すにも足らぬものです。
内には楊朱のような
静篤を守る術が無く、
外には墨翟のような
時宜にかなった執務の風も無いことは
さながら天の南箕(箕宿)が
(四角形で器のように見えるが)
空虚で、用いる事のできぬようなものです。
書簡を賜りましたが、
賢明なる甥御の鸞鳳の艶を挫き、
燕雀の屋宇に遊ばせようと
なさっておられる。
どうやって啓発すればよろしいのでしょう。
〝有りても無きが若く、
実ちても虚しきが若し〟
(という言葉と照らし合わせて)
愧じておりまして
何を以てこれに堪えられましょう」
(註釈)
劉巴は荊州零陵郡烝陽県の人。
その事績は
「零陵先賢伝」で補われる。
隋書33巻によると、
零陵先賢伝は1巻、撰者不明。
その零陵先賢伝によると、
劉巴の祖父と父は郡太守。
交州(蒼梧)と荊州(江夏)という
難しそうな土地の
長官に任命されてるからには
ある程度の実務能力は保証されてそう。
父、劉祥は孫堅のシンパ。
(後漢書、霊帝紀)
「(中平四年)冬十月,零陵人觀鵠自稱『平天將軍』,寇桂陽,長沙太守孫堅擊斬之」
(訳)
中平四年(187)冬十月、
零陵の人の観鵠が
「平天将軍」を自称し
桂陽を寇掠したが、
長沙太守の孫堅が攻撃しこれを斬った。
(呉書、破虜伝)
「時長沙賊區星自稱將軍,衆萬餘人,攻圍城邑,乃以堅為長沙太守。到郡親率將士,施設方略,旬月之閒,克破星等。周朝、郭石亦帥徒衆起於零、桂,與星相應。遂越境尋討,三郡肅然。漢朝錄前後功,封堅烏程侯」
(訳)
当時、長沙の賊の区星が
将軍を自称し、一万余りの人数を集めて
城邑を攻囲していた。
そこで孫堅が長沙太守となった。
孫堅は長沙郡に到ると
自ら将士を統率し、方略を施設して
一ヶ月の間に区星らを破り、勝利した。
周朝や郭石もまた
零陵・桂陽の衆徒を統率して蜂起し、
区星と互いに呼応した。
かくして孫堅は長沙の境地を越えて
周朝らを討伐し、三郡は粛然となった。
これらを見る限り、
観鵠・区星・周朝・郭石といった
(ホームの)荊南で暴れてた賊を
孫堅がぶっ飛ばしたのを知って
信頼を置いた…と見るのが自然かな。
190年の冬(献帝紀参照)に
孫堅が南陽太守を殺すと、
(孫堅に同調した劉祥は)
民の怒りを買い、殺されてしまった。
「南陽太守の張諮」については
孫堅の項で詳しく触れています。
孫堅は同時期に
荊州刺史の王叡も殺しており、
その後釜として劉表が
荊州に赴任する事になっている。
零陵先賢伝では、劉表は以前から
劉祥と仲が悪かったらしく
息子の劉巴も命を狙われる羽目に。
劉祥の信頼が厚かった部下を使って
劉巴を騙そうとするが、何度やっても
応じなかった。
陳寿の本文でも、劉表から
何回も召辟を受けているが
劉巴が応える様子はない。
父親が親孫堅だったから
まず父親の部下を介して
劉巴の真意を探ってみて、
孫策のとこに行くつもりなら殺す、
その気がないならスカウトする…っていう
魂胆だったんじゃないかね。
18歳で郡(零陵?)から
召辟を受けるが
これには応じた?
いずれにしろ荊北では
父の遺恨もあり、
就職するのは難しかっただろう。
同郡の劉先から
(劉表伝で、別駕の劉先…と書かれてる)
甥の周不疑に勉強教えてたってくれと
頼まれるが、ことわる。
ここで劉巴の言っている
「記問の学」は、ちくま訳によると
質問の答えを予想して
あらかじめ答えを記憶しておく学問。
「礼記」の学記に、
「記問の学は以て人の師と為すべからず」
とある。
劉先と周不疑については、
やはり劉表伝の引く零陵先賢伝に
詳しく書いてあります↓
零陵先賢傳曰:先字始宗,博學彊記,尤好黃老言,明習漢家典故。爲劉表別駕,奉章詣許,見太祖。時賔客並會,太祖問先:「劉牧如何郊天也?」先對曰:「劉牧託漢室肺腑,處牧伯之位,而遭王道未平,羣凶塞路,抱玉帛而無所聘頫,脩章表而不獲達御,是以郊天祀地,昭告赤誠。」太祖曰:「羣凶爲誰?」先曰:「舉目皆是。」太祖曰:「今孤有熊羆之士,步騎十萬,奉辭伐罪,誰敢不服?」先曰:「漢道陵遲,羣生憔悴,旣無忠義之士翼戴天子,綏寧海內,使萬邦歸德,而阻兵安忍,曰莫己若,即蚩尤、智伯復見於今也。」太祖嘿然。拜先武陵太守。荊州平,先始爲漢尚書,後爲魏國尚書令。先甥同郡周不疑,字元直,零陵人。先賢傳稱不疑幼有異才,聦明敏達,太祖欲以女妻之,不疑不敢當。太祖愛子倉舒,夙有才智,謂可與不疑爲儔。及倉舒卒,太祖心忌不疑,欲除之。文帝諫以爲不可,太祖曰:「此人非汝所能駕御也。」乃遣刺客殺之。摯虞文章志曰:不疑死時年十七,著文論四首。
劉先は字を始宗。
博覧強記で老子を好む。
曹操への使者に立った時
堂々とした受け答えを見せた。
最終的に、魏の尚書令。
周不疑は字を元直(徐庶と同じ)。
曹操は彼に娘を嫁がせようとするが、
不疑は敢えて受けようとはしなかった。
曹操は息子の曹沖(早熟の天才)と
不疑が同じレベルにあると考えたが
曹沖が夭折すると、内心で
不疑を危険視するようになった。
曹丕が曹操を諌めるが、
「お前に御せる相手では無い」
と言い、刺客を遣わして
結局殺してしまった。
享年十七。




