註一、胡済
註1.
偉度者,姓胡,名濟,義陽人。為亮主簿,有忠藎之效,故見褒述。亮卒,為中典軍,統諸軍,封成陽亭侯,遷中監軍前將軍,督漢中,假節領兗州刺史,至右驃騎將軍。濟弟博,歷長水校尉尚書。
(訳)
偉度は、姓を胡、名を済といい
義陽の人である。
諸葛亮の主簿となり
忠誠の効があったために
称述されているのだ。
諸葛亮が卒すると
中典軍となって諸軍を統率し
成陽亭侯に封じられた。
中監軍、前将軍に遷り、
漢中を監督、仮節となり
兗州刺史を兼領し、
右驃騎将軍まで至った。
胡済の弟の胡博は
長水校尉、尚書を歴任した。
(註釈)
胡済は後主伝、董允伝、姜維伝、
華陽国志で名前が確認できました。
・蜀書、後主伝
「十九年春,進姜維位為大將軍,督戎馬,與鎮西將軍胡濟期會上邽,濟失誓不至。秋八月,維為魏大將軍鄧艾所破於上邽。維退軍還成都。是歲,立子瓚為新平王。大赦」
・蜀書、姜維伝
「十九年春,就遷維為大將軍。更整勒戎馬,與鎮西大將軍胡濟期會上邽。濟失誓不至,故維為魏大將鄧艾所破於段谷,星散流離,死者甚眾。眾庶由是怨讟,而隴以西亦騷動不寧。維謝過引負,求自貶削。為後將軍,行大將軍事」
「於是令督漢中胡濟卻住漢壽,監軍王含守樂城,護軍蔣斌守漢城,又於西安、建威、武衛、石門、武城、建昌、臨遠皆立圍守。
・華陽国志、劉後主
「十一年,鎮北將軍王平卒。以中監軍胡濟(即上文典軍義陽胡濟。)為驃騎將軍,假節,領兗州刺史,代平督漢中事」
「十九年,魏甘露元年也。春,進衛將軍姜維為大將軍。秋八月,維復出天水,至上邽,鎮西大將軍胡濟失期不至,大為魏將鄧艾所破,死者眾」
延煕11年(248)に
王平に代わって漢中督、
驃騎将軍、仮節、領兗州刺史。
蜀は兗州を領有してないから形だけ。
延煕19年(256)には
鎮西大将軍まで昇進してる。
姜維と上邽で落ち合うはずが現れず、
姜維は段谷で鄧艾にボコボコにされた。
景耀年間(258〜)になってから
姜維が防衛の方針を転換し
漢寿に移ることになった。
董允伝では「中典軍胡済」となっており、
胡済はただ宴会の約束をしたという
だけなので、ここでは取り上げません。
董和評価↓
戦闘 ★★★★ 4
干戈の功はない。
戦略 ★★★★★ 5
内政 ★★★★★★★ 7
緩む法規を引き締め
同じタイプの諸葛亮と阿吽の呼吸。
人格 ★★★★★★★ 7
自己を戒め倹しく生きた在り方は
諸葛亮の生きた規範になった。
董允がまじめなのも
おやじの影響でしょう。
陳武─陳修
霍峻─霍弋
陳羣─陳泰
など、子供の列伝は
父親に付記されてる事が多いんですが
董和と董允は例外的に
同じ巻の前後になってます。
続いて零陵の名士、劉巴伝。




