表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第七、龐統伝
548/603

五、陳寿評

5.

評曰:龐統雅好人流,經學思謀,于時荊﹑楚謂之高俊.法正著見成敗,有奇畫策算,然不以德素稱也.儗之魏臣,統其荀彧之仲叔,正其程﹑郭之儔儷邪?

(訳)

評にいう、龐統はもとより

人流(人物批評)を好み、

経書を学び、謀計を思案し、

当時の荊・楚は彼を

高邁、俊英であると述べた。


法正は成功と失敗を

見極めることがあきらかで

奇謀、策略を有していたが、

徳性についての称賛はなかった。


彼らを魏の臣下に擬えれば、

龐統は荀彧じゅんいく仲叔ちゅうしゅく(兄弟)、

法正は程昱ていいく郭嘉かくか儔儷ちゅうれい(仲間)であろうか?


(註釈)

蜀書7巻の評。


「郭奉孝在,不使孤至此。」

「法孝直若在,則能制主上,令不東行;就復東行,必不傾危矣。」


のセリフを並べると

法正を郭嘉に比してるのが

よくわかる。


龐統と法正がいる間は

劉備陣営無敗なんだよね。


三国志で、このほかに

龐統が登場する所をまとめました↓


・魏書、劉表伝の引く「傅子」

《傅子》曰:巽字公悌,瓌偉博達,有知人鑒。辟公府,拜尚書郎,後客荊州,以說劉琮之功,賜爵關內侯。文帝時爲侍中,太和中卒,【巽在荊州,目龐統爲半英雄,證裴潛終以清行顯;統遂附劉備,見待次於諸葛亮,潛位至尚書令,並有名德。】及在魏朝,魏諷以才智聞,巽謂之必反,卒如其言。巽弟子嘏,別有傳。


・蜀書、先主伝

先主留諸葛亮、關羽等據荊州,將步卒數万人入益州。至涪,璋自出迎,相見甚歡。張松令法正白先主,【及謀臣龐統進說,便可於會所襲璋。】先主曰:「此大事也,不可倉卒。」璋推先主行大司馬,領司隸校尉;先主亦推璋行鎮西大將軍,領益州牧。璋增先主兵,使擊張魯,又令督白水軍。先主並軍三萬餘人,車甲器械資貨甚盛。是歲,璋還成都。先主北到葭萌,未即討魯,厚樹恩德,以收眾心。


・蜀書、後主伝

三年秋九月,追諡故將軍關羽、張飛、馬超、龐統、黃忠。


・蜀書、諸葛亮伝の引く「襄陽記」

襄陽記曰:劉備訪世事於司馬德操。德操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑。此間自有伏龍、鳳雛。」備問為誰,曰:「諸葛孔明、龐士元也。」


・蜀書、趙雲伝

七年卒,追諡順平侯。初,先主時,惟法正見諡;後主時,諸葛亮功德蓋世,蔣琬、費禕荷國之重,亦見諡;陳祗寵待,特加殊獎,夏侯霸遠來歸國,故複得諡;【於是關羽、張飛、馬超、龐統、黃忠及雲乃追諡,】時論以為榮。


・蜀書、彭羕伝

羕欲納說先主,乃往見龐統。統與羕非故人,又適有賓客,羕徑上統床臥,謂統曰:「須客罷當與卿善談。」統客既罷,往就羕坐,羕又先責統食,然後共語,因留信宿,至於經日。統大善之,而法正宿自知羕,遂並致之先主。


・蜀書、廖立伝

廖立字公淵,武陵臨沅人。先主領荊州牧,闢為從事,年未三十,擢為長沙太守。先主入蜀,諸葛亮鎮荊土,孫權遣使通好於亮,因問士人皆誰相經緯者,【亮答曰:「龐統、廖立,楚之良才,當贊興世業者也。」】建安二十年,權遣呂蒙奄襲南三郡,立脫身走,自歸先主。先主素識待之,不深責也,以為巴郡太守。二十四年,先主為漢中王,徵立為侍中。後主襲位,徙長水校尉。


・蜀書、楊戯伝

(張存について)

處仁本名存,南陽人也。以荊州從事隨先主入蜀,南次至雒,以為廣漢太守。【存素不服龐統,統中矢卒,先主發言嘉嘆,存曰:「統雖盡忠可惜,然違大雅之義。」先主怒曰:「統殺身成仁,更為非也?」免存官。】頃之,病卒。失其行事,故不為傳。


・呉書、陸績伝

績容貌雄壯,博學多識,星歷算數無不該覽。【虞翻舊齒名盛,龐統荊州令士,年亦差長,皆與績友善。】


龐統をけなした張存に

劉備が怒りを露わにするシーンが

印象的です。


個人的な龐統評です↓


戦闘 ★★★★★ 5


原点から動かすほどじゃない。


戦略 ★★★★★★★ 7


上中下の三策は

劉備に選ばせてるのが上手い。

劉備は人の掣肘受けるの

きらいだからね。


具体的な死亡時期がわからない。

没年が212年だと177年生まれ

没年が213年だと178年生まれ

没年が214年だと179年生まれ


いずれにしろ諸葛亮(181生まれ)より年上。


内政 ★★★★★★★ 7


南郡の功曹

従事、耒陽県令

軍師中郎将


魯粛の「百里の才じゃ無い」

という言葉を信じて★7。



人格 ★★★★★★ 6


風采はあがらないけど

南方での評価は高かった。


周瑜が死んだ後、劉備に

鞍替えした経緯をもっとはっきり

教えて欲しかったなぁ。


そんなこんなで、

諸葛亮と並び称された

襄陽の俊英、龐統伝でした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ