四・註七、流れ矢に斃る/義妹は賢婦
4.
進圍雒縣,統率眾攻城,為流矢所中,卒,時年三十六。先主痛惜,言則流涕。拜統父議郎,遷諫議大夫,諸葛亮親為之拜。追賜統爵關內侯,諡曰靖侯。統子宏,字巨師,剛簡有臧否,輕傲尚書令陳袛,為袛所抑,卒於涪陵太守。統弟林,以荊州治中從事參鎮北將軍黃權征吳,值軍敗,隨權入魏,魏封列侯,至鉅鹿太守。
(訳)
進軍して雒県を囲み、
龐統は部衆を率いて城を攻めたが
流れ矢に中ってしまい、卒した。
時に三十六歳であった。
先主は痛惜し、
(龐統の事を)言えば流涕した。
龐統の父は議郎に拝され
諫議大夫に遷ったが、
諸葛亮が自ら彼のために
任命したものであった。
龐統に関内侯の爵位を追賜し
靖侯と諡した。
龐統の子の龐宏は字を巨師、
龐統の弟の龐林は
荊州治中従事として
鎮北将軍黄権の呉征討に参加したが、
軍の敗北に直面すると
黄権に隨って魏へ入国した。
魏で列侯に封じられ、鉅鹿太守に至った。
註7.
襄陽記曰:林婦,同郡習禎妺。禎事在楊戲輔臣贊。曹公之破荊州,林婦與林分隔,守養弱女十有餘年,後林隨黃權降魏,始復集聚。魏文帝聞而賢之,賜床帳衣服,以顯其義節。
(訳)
襄陽記にいう、
龐林の妻は同郡の習禎の妹。
習禎の事績は楊戯の輔臣賛にある。
曹公が荊州を破ると、龐林の妻は
龐林と離れ離れになってしまい、
弱女(幼い娘)を守り、養育する事
十余年にもおよんだが、
後に龐林が黄権に隨って魏に降った際に
やっと再会することができた。
魏の文帝(曹丕)はこの事を聞くと
彼女を賢明であるとみなし、
床・帳・衣服を賜って
その義節を顕彰した。
(註釈)
先主伝だと、
(212年に入ってから)
進軍圍雒,時璋子循守城,被攻且一年。十九年(214)夏,雒城破…
呉範伝だと、
及壬辰歲(212),範又白言:「歲在甲午,劉備當得益州。」後呂岱從蜀還,遇之白帝,說備部衆離落,死亡且半,事必不克。權以難範,範曰:「臣所言者天道也,而岱所見者人事耳。」備卒得蜀。
……とあり、劉備軍が雒城で
相当手こずっているのがわかる。
先主伝の入蜀パートでは
龐統は最初にちょろっと出てくるのみ。
雒城攻めの際に流れ矢に当たり
戦死してしまったようだ。
龐統の話題が出るたびに
劉備が泣いてるし、
季漢輔臣賛に普通に出てくるし
蜀で諡号まで貰ってるから
孫呉のまわし者説は薄くなった。
演義だと「落鳳坡」っていう
むっちゃ不吉な地名で落命する筋書き。
龐統の弟と、妻子は
蜀側と魏側に分かたれてしまったが、
夷陵の戦いの時に、龐林が
黄権といっしょに魏に降った事で
再会がかなった。本当に良かった。
習禎は、季漢輔臣賛に
記述があります↓
文祥名禎,襄陽人也。隨先主入蜀,歷雒、郫令,(南)廣漢太守。失其行事。子忠,官至尚書郎。 〈襄陽記曰:習禎有風流,善談論,名亞龐統,而在馬良之右。子忠,亦有名。忠子隆,為步兵校尉,掌校秘書。〉
(訳)
習文祥は名を禎といい、襄陽の人である。
先主の入蜀に隨い、雒・郫の県令、
(南)広漢太守を歴任した。
その行跡、事績は欠失している。
子の習忠は尚書郎の官まで至った。
襄陽記にいう、
習禎は風流を有し談論が得意であり
名声は龐統に亜ぎ、馬良の右にあった。
子の習忠もまた名声を有していた。
習忠の子の習隆は歩兵校尉となり、
秘書の校訂を掌った。
習鑿歯はこの習禎の後裔だそうです。




