註六、習鑿歯と裴松之のツッコミ
註6.
習鑿齒曰:夫霸王者,必體仁義以為本,仗信順以為宗,一物不具,則其道乖矣。今劉備襲奪璋土,權以濟業,負信違情,德義俱愆,雖功由是隆,宜大傷其敗,譬斷手全軀,何樂之有?龐統懼斯言之泄宣,知其君之必悟,故眾中匡其失,而不脩常謙之道,矯然太當,盡其蹇諤之風。夫上失而能正,是有臣也,納勝而無執,是從理也;有臣則陛隆堂高,從理則群策畢舉;一言而三善兼明,暫諫而義彰百代,可謂達乎大體矣。若惜其小失而廢其大益,矜此過言,自絕遠讜,能成業濟務者,未之有也。臣松之以為謀襲劉璋,計雖出於統,然違義成功,本由詭道,心既內疚,則歡情自戢,故聞備稱樂之言,不覺率爾而對也。備宴酣失時,事同樂禍,自比武王,曾無愧色,此備有非而統無失,其雲「君臣俱失」,蓋分謗之言耳。習氏所論,雖大旨無乖,然推演之辭,近為流宕也。
(訳)
習鑿歯はいう、
そもそも覇王とは
必ず仁義の体現を根本とし
信、順をたのみとする事を
宗(本意)とする。
一物でも具わらねば
則ち、その道に乖いてしまう。
今、劉備は劉璋の領土を
襲撃して奪い、権謀によって
事業を成就させたが、
信義にそむき、人情を違えており、
徳、義、俱に愆ってしまっている。
功はこれに因り興隆したと雖も
大いにその失敗を傷むべきであり
譬えるなら、手を断ちながら
体を全うするようなもので、
どうしてこれに楽しみなどあろうか。
龐統はその言葉の漏泄を懼れ
その主君が必ず悟るであろうと
承知していたがために
衆人監視の中で
その過失を匡正したのであるが、
常に謙るという道を修めず、
矯然としている事甚だしく、
その蹇諤の風を尽くしている。
そもそも上の過失を正せるのは
臣下がいるからであり、
勝ちをおさめても執着が無いのは
道理に従うからである。
臣が有らば則ち陛隆く堂高く、
理に従えば即ち様々な策が
畢く挙げられるのだ。
一つの言で三つの善を
あわせて明らかにし、
暫時の諫言で百代に
義を彰らかにしたなら、
大体に達していると謂えるであろう。
もしその小さな失態を惜しんで
その大きな利益を廃し、
この過言を矜り自ら遠讜を絶ったなら
事業を成し遂げ、責務を全うできた者など
いまだ存在しないのである。
臣松之が考えるに、
劉璋を襲撃する謀の計は
龐統から出ていると雖も
道義を違えながら功を成し
もとより詭道に由るものである。
心の内が疚しければ
則ち歡情は自ずと戢まるもので
故に劉備の「楽しい」と
称する言葉を聞いて
図らずも率爾としてこたえたのだ。
劉備の宴酣は時宜を失しており
事は禍を楽しむのと同様で
自らを武王に比して
慚愧の色などはまるでない。
これは劉備に非があって
龐統に過失などはないのだが、
彼の「君臣とも間違っていた」
との発言は、恐らくは
誹謗の言葉を分けようとしただけに
過ぎぬであろう。
習氏の論は、
大凡の旨は乖離していないと雖も
推論や演繹(拡大解釈)の言が
流宕に近いといえよう。
(註釈)
道義を違えて勝利したあと
劉備が宴会で楽しそうにしてるのは
習先生も裴先生も龐統も
「いかんでしょ」との見解。
習鑿歯は龐統の態度も悪い、
裴松之は龐統は別に悪くないだろ、
「君臣ともに間違っている」は
自分も世論のバッシングを
受けるつもりで言っているよ、
ということでした。
「流宕」は奔放に近い意味合い。




