註一、龐徳公
註1.
襄陽記曰:諸葛孔明為臥龍,龐士元為鳳雛,司馬德操為水鏡,皆龐德公語也。德公,襄陽人。孔明每至其家,獨拜床下,德公初不令止。德操嘗造德公,值其渡沔,上祀先人墓,德操徑入其室,呼德公妻子,使速作黍,「徐元直向雲有客當來就我與龐公譚。」其妻子皆羅列拜於堂下,奔走供設。須臾,德公還,直入相就,不知何者是客也。德操年小德公十歲,兄事之,呼作龐公,故世人遂謂龐公是德公名,非也。德公子山民,亦有令名,娶諸葛孔明小姊,為魏黃門吏部郎,早卒。子渙,字世文,晉太康中為牂牁太守。統,德公從子也,少未有識者,惟德公重之,年十八,使往見德操。德操與語,既而嘆曰:「德公誠知人,此實盛德也。」
(訳)
襄陽記にいう、
諸葛孔明(諸葛亮)を臥龍、
龐士元(龐統)を鳳雛、
司馬德操(司馬徽)を水鏡と為したのは
すべて龐徳公の言葉である。
徳公は、襄陽の人。
孔明はその家に至る毎に
獨り床下に拝礼していたが
徳公は当初止めさせなかった。
徳操(司馬徽)が嘗て
徳公のもとを訪れた際
ちょうど彼は沔水を渡り
遡上して(?)先人の墓を祀っていた。
徳操はその室へ直入すると
徳公の妻子を呼ばわって
迅速に黍を作らせ、
「徐元直(徐庶)が
以前に言っていたでしょう、
『我のもとをたずね、
龐公と譚らいに来る
客がおります』」
と述べた。
その妻子はみな羅列して
堂の下にて拝礼すると
奔走して席を設けた。
須臾にして徳公が戻ってくると
直ちに入ってきて
たがいに(席に)就いたが
この客が何者なのかは知らなかった。
徳操は徳公より十歳年少で
彼に兄事し、龐公と呼んだ。
故に世の人は、遂には
「龐公」が徳公の名だと
謂うようになったが、間違いである。
徳公の子の山民も
また令名(立派な名声)があり、
諸葛孔明の小妹を娶り、
魏の黄門吏部郎となったが
早くに卒してしまった。
子の龐渙は字を世文、
晋の太康年間(280〜289)に
牂牁太守となった。
龐統は徳公の従子で、
少い頃は識る者がいなかったが、
ただ徳公のみが彼を重んじていた。
(龐統が)年十八のとき、
徳操のもとへ往かせ会見させた。
徳操はともに語らったあと
慨嘆して言った。
「徳公は誠に人を知っている、
これ(龐統)の盛んな徳は本物だ」
(註釈)
襄陽記は東晋の習鑿歯の作。
「漢晋春秋」書いたのもこの人。
史家をまとめた、晋書82巻に列伝あり。
襄陽出身(自身もそう)の人物の事績略歴、
山水地理のデータなどを収録している。
龐統や羅憲、蔡瑁、
馬良、馬謖、張悌のほか
胡烈、羊祜、杜預、劉弘など
魏晋の時代に荊州治めてた人の記録も。
襄陽記だけじゃなくて、
諸葛亮伝の本文でも、徐庶が
「諸葛亮は臥龍です」って言ってる。
演義の創作だと思っててごめん…。
当時は名士に評価されて
ナンボみたいな所があり
襄陽らへんは龐徳公に
認められればOKってな感じか。
SNSでも
インフルエンサーの人に紹介されたら
ビャーッて伸びるからね。
昔も今もあんま変わらない。
龐徳公については、
やはり「襄陽記」に詳しいです。
(後漢書の「逸民伝」やら
「高士伝」にも登場)
※すでに引用されてる部分は
【】で囲っておきました。
↓
【龐德公,襄陽人】居峴山之南,未嘗入城府。躬耕田里,夫妻相待如賓,〈休止則正巾端坐。〉琴書自娛,睹其貌者肅如也。
荊州牧劉表,數延請,不能屈。乃自往候之,謂公曰:「夫保全一身,孰若保全天下乎?」公笑曰:「鴻鵠巢於高林之上,暮而得所棲;龜黿穴於深泉之下,夕而得所宿。夫趨舍行止,亦人之巢穴也。但各得其棲宿而已,天下非所保也。」因釋耕隴上,妻子耘於前。表指而問曰:「先生苦居畎畝之間,而不肯當祿,然後世將何以遺子孫乎?」公曰:「世人皆遺之以危,今獨遺之以安。雖所遺不同,未為無所遺也。」表曰:「何謂?」公曰:「昔堯、舜舉海內授其臣,而無所執愛,委其子於草莽,而無矜色。丹朱、商均至愚下,得全首領以沒。禹、湯雖以四海為貴,遂以國私其親,使桀徙南巢、紂懸首周旗,而族受其獲。夫豈愚於丹朱、商均哉?其勢危故也。周公攝政天下,而殺其兄。向使周公兄弟食藜藿之羹,居蓬蒿之下,豈有若是之害哉!」表嘆息而去。
【諸葛孔明每至公家,獨拜床下,德公殊不令止。司馬德操嘗造公,值公渡沔,祀先人墓。德操徑入其室上,呼德公妻子,使速作黍,「徐元直向言,有客當來就我與公談論。」其妻子皆羅列,拜於堂下,奔走供設。須臾,德公還,直入相就,不知何者是客也。】
【德操小德公十歲,以兄事之,呼作龐公也。故世人遂謂「公」是德公名,非也。】
後遂攜其妻子登鹿門山,託言採藥,因不知所在。
【先賢傳云:「鄉里舊語,目諸葛孔明為臥龍,龐士元為鳳雛,司馬德操為水鏡,皆德公之題也。」】
【其子倦民,亦有令名,娶諸葛孔明小姊,為魏黃門吏部郎,早卒。子煥,字世文,晉太康中為牂牁太守。】去官還鄉里,〈居荊南白沙鄉。〉里人宗敬之,相語曰:「我家池裡龍來歸。」鄉里仰其德讓,少壯替代老者擔。
龐徳公は劉表からの
再三に渡るオファーを断っているが、
従子の龐統の官暦は
劉表のもと南郡の功曹からスタート。
後漢書逸民伝だと、
劉表が立ち去った後に
「後遂攜其妻子登鹿門山,因采藥不反」
の文言が追加されています。
西晋の太康年間(280〜289)に
牂牁太守になった孫の龐煥(渙)は
官職を捨てて郷里に戻ったようだ。
牂牁郡は益州にある。
晋書の羅憲伝によると、
羅尚の父の羅式(羅憲の兄か)が
牂牁太守であったという。
太康年間の末期に羅尚は梁州刺史になった。
龐煥が牂柯太守になったのは
たぶん羅式のあと。
他には、張魯に仕えていた閻圃の
子の閻璞が
「仕呉至牂牁太守」とある。
この呉は衍字らしい。




