十一・註十七前、書家胡昭/隠者焦先
11.
初,昭善史書,與鍾繇、邯鄲淳、衞覬、韋誕並有名,尺牘之迹,動見模楷焉。
(訳)
当初、胡昭は史書(ここでは書体を指す)を善くし、
邯鄲淳、衛覬、韋誕と並んで名声があり
尺牘(手紙や書簡)の迹(筆跡)は
(人の心を)ゆさぶり、模範とされた。
註17-1.
傅子曰:胡徵君怡怡無不愛也,雖僕隷,必加禮焉。外同乎俗,內秉純絜,心非其好,王公不能屈,年八十而不倦於書籍者,吾於胡徵君見之矣。時有隱者焦先,河東人也。魏略曰:先字孝然。中平末,白波賊起。時先年二十餘,與同郡侯武陽相隨。武陽年小,有母,先與相扶接,避白波,東客揚州取婦。建安初來西還,武陽詣大陽占戶,先留陝界。至十六年,關中亂。先失家屬,獨竄於河渚間,食草飲水,無衣履。時大陽長朱南望見之,謂為亡士,欲遣船捕取。武陽語縣:「此狂癡人耳!」遂注其籍。給廩,日五升。後有疫病,人多死者,縣常使埋藏,童兒豎子皆輕易之。然其行不踐邪徑,必循阡陌;及其捃拾,不取大穗;饑不苟食,寒不苟衣,結草以為裳,科頭徒跣。每出,見婦人則隱翳,須去乃出。自作一瓜牛廬,淨埽其中。營木為牀,布草蓐其上。至天寒時,搆火以自炙,呻吟獨語。饑則出為人客作,飽食而已,不取其直。又出於道中,邂逅與人相遇,輙下道藏匿。或問其故,常言「草茅之人,與狐兔同羣」。不肯妄語。太和、青龍中,甞持一杖南渡淺河水,輙獨云未可也,由是人頗疑其不狂。至嘉平中,太守賈穆初之官,故過其廬。先見穆再拜。穆與語,不應;與食,不食。穆謂之曰:「國家使我來為卿作君,我食卿,卿不肯食,我與卿語,卿不應我,如是,我不中為卿作君,當去耳!」先乃曰:「寧有是邪?」遂不復語。其明年,大發卒將伐吳。有竊問先:「今討吳何如?」先不肯應,而謬歌曰:「祝衂祝衂,非魚非肉,更相追逐,本心為當殺牂羊,更殺其羖䍽邪!」郡人不知其謂。會諸軍敗,好事者乃推其意,疑牂羊謂吳,羖䍽謂魏,於是後人僉謂之隱者也。議郎河東董經特嘉異節,與先非故人,密往觀之。經到,乃奮其白鬚,為如與之有舊者,謂曰:「阿先闊乎!念共避白波時不?」先熟視而不言。經素知其昔受武陽恩,因復曰:「念武陽不邪?」先乃曰:「已報之矣。」經又復挑欲與語,遂不肯復應。後歲餘病亡,時年八十九矣。
(訳)
傅子にいう、
胡徵君(胡昭)は怡怡として
愛さぬ事がなく、僕隷(奴隷)と雖も
必ず礼を加えていた。
外面では世俗に同調しても
内面では純潔を秉り
心で好ましく思わなければ
王公とて屈従させられなかった。
年八十にして書籍に倦まぬ者(の例)を
吾(作者の傅玄)は胡徵君に見るのである。
時に隠者の焦先がおり、河東の人である。
「魏略」にいう、焦先は字を孝然。
中平年間の末期(〜189)に白波賊が決起した。
時に焦先は年二十余であり、
同郡の侯武陽と相隨った。
侯武陽は年少く、母がいた。
焦先はともに扶持して白波を避け
東の揚州へ客寓して婦(嫁)を取った。
建安年間の初期(196〜)に西へ帰還すると
侯武陽は大陽へ詣って
戸を占めた(家を構えた)が、
焦先は陝の界域に留まった。
十六年(211)に至って
関中が乱れた(馬超の乱)。
焦先は家属を失い、
獨り河渚の間に鼠竄すると
草を食べて水を飲み、
着たり履いたりするものを無くした。
時に大陽の長の朱南がこれを望見して
「亡士がおる」と謂い、
船を遣って捕えようとしたが、
侯武陽は県に語った。
「これは狂痴の人にすぎません」
かくてその戸籍に注釈され
倉廩からの支給が一日五升となった。
その後、疫病が起こって多数の死者が出ると
県は常に埋蔵をさせ、
童児や豎子(子どもたち)は皆
これを軽易した。
然しその出行は邪の徑を践まず
必ず阡陌(十字路)に循った。
その捃拾(落ちてる者を拾う)に及んでは
大きな穂を取る事はなく、
饑えても苟且に食事せず、
寒くても苟且に身に付けず、
草を結んで裳としており
科頭(頭に何もつけない)のうえに
徒跣であった。
出行するたびに
婦人を見れば則ち翳に隠れて
去るのを須ってから出てきた。
自ら一軒の
瓜牛廬(かたつむりのような家)を作り、
その中を清浄した。
木を組んでで牀を為し、
草の褥をその上に布いた。
天寒の時に至ると
篝火を以て自らを炙り、
呻吟して独りごちっていた。
饑えれば則ち
飽食するのみで
その値(賃金)は受け取らなかった。
また、道中に出て
邂逅し(思いがけず)人と出くわすと
その都度道を下りて匿れた。
ある者がそのわけを問うと、常に
「草茅の人は、狐や兎と同じたぐいですから」
と言って、妄りに語ることを肯じなかった。
太和、青龍年間(曹叡の代)のころ
嘗て一本の杖を持って
南方の浅い河水を渡ったが、
その都度「まだできない」と独りごちていた。
この事に由り、人々は頗る
彼が狂っているのではないかと疑った。
嘉平年間(249〜254)に至って
太守の賈穆が初めて赴任し、
故意にその庵を通りがかった。
焦先は賈穆に見えて再拝した。
賈穆はともに語ろうとしたが応じてもらえず、
ともに食事をしようとしたが、
食べてもらえなかった。
賈穆は彼に謂った。
「国家は我を来らせて
卿の君と為さしめたが、
我が卿に食事を与えても食べてくれぬし
我がともに語ろうとしても
卿は我に応じてくれぬ。
かくの如くであれば、我は
卿が君とするには中らぬのだから
立ち去るしかない」
焦先はそこで、こう言った。
「どうしてそのような事がありましょう」
結局もう語ることはなかった。
その明年、(魏は)大いに兵卒を発して
呉を討伐しようとした。
(たぶん252年、孫権の死の直後の三路侵攻)
ひそかに焦先に、
「今度の呉討伐について、如何お考えですか?」
と問う者がいた。
焦先は応答を肯じずに
狂ったような歌を口にした。
「祝衂、祝衂、
魚でもない、肉でもない、
更にあい追逐すれば
本心は〝牂羊〟を殺そうとしているのに
改めてその〝羖䍽〟を殺すのか」
人々は彼の謂っている意味がわからなかった。
折しも諸軍が敗れ、
好事家はそこでやっと
その意味を推し量り、
牂羊は呉、羖䍽は魏の事を
謂っていたのではないかと疑った。
これ以降、人々は僉、
彼のことを隠者と謂った。
議郎、河東の人の董経は
特に異節(人とは違った節義)を嘉しており
焦先とは旧知でなかったため
密かに彼を観察しに行った。
董経は到着すると、
そこでその白鬚をふるわせ
彼とは旧交があるかのようにふるまい
こう言った。
「阿先(先ちゃん)、無沙汰だったね、
ともに白波を避けた時の事を
覚えているかい?」
焦先は熟視したが、言葉は発さなかった。
董経は、彼が昔
侯武陽から恩を受けていた事を
知っていたので、そこで
今度はこう言った。
「侯武陽を覚えているかい?」
焦先はそこで言った。
「已に彼には報いましたよ」
董経はまたそそのかして
ともに語ろうとしたが
結局もう応答を肯じなかった。
その後、一年余りで病死した。
時に八十九歳だった。
(註釈)
ここも、裴註が長いので二つに分けました。
邯鄲淳や韋誕は書家として有名らしい。
晋書の衛瓘伝に付記されてた
衛恒伝の「四体書勢」に出てきました。
邯鄲淳は王粲伝の註で
曹植のパフォーマンスに
感じ入る逸話があったね。
胡昭の話が終わると、
「フフフ、陳寿甘いな。
隠者といえばこの人を忘れているぜ!」
と言わんばかりに
裴松之が焦先の逸話を挿入してきた。
彼の謬歌とやらの出だしにある
「祝衂、祝衂」がナゾだけど、
衂は挫ける、鼻血、敗北などの意味。
このたびは敗北おめでとう、って事?
賈穆は、賈詡さんの長男。
賈詡の晩年に駙馬都尉。
30年くらい経って(河東?)太守。
焦先は
中平年間(184〜189)に白波から逃げ
嘉平年間(249〜254)まで
ずいぶん長い間生きている、享年89。
やはり世捨て人の方が長生き!