註十五・註十六、晋代の何氏/賢人礼遇議
註15.
文士傳曰:楨字元幹,廬江人,有文學器幹,容貌甚偉。歷幽州刺史、廷尉,入晉為尚書光祿大夫。楨子龕,後將軍;勗,車騎將軍;惲,豫州刺史;其餘多至大官。自後累世昌阜,司空文穆公充,惲之孫也,貴達至今。
(訳)
文士伝にいう、
何楨は字を元幹、廬江の人。
文学に器量、才幹があり
容貌は甚だ魁偉であった。
幽州刺史、廷尉を歴任し
晋代に入ると尚書、光禄大夫となった。
何楨の子の何龕は後将軍、
何勗は車騎将軍、何惲は豫州刺史、
その他多くも大役に至った。
以後、世を累ねて昌阜(栄える)した。
司空、文穆公の何充は何惲の孫であり
顕貴、栄達は昨今まで至っている。
註16.
高士傳曰:朝廷以戎車未息,徵命之事,且須後之,昭以故不即徵。後顗、休復與庾嶷薦昭,有詔訪於本州評議。侍中韋誕駮曰:「禮賢徵士,王政之所重也,古者考行於鄉。今顗等位皆常伯納言,嶷為卿佐,足以取信。附下罔上,忠臣之所不行也。昭宿德耆艾,遺逸山林,誠宜加異。」乃從誕議也。
(訳)
高士伝にいう、
朝廷は戎車(戦車=戦争)が終息せぬ事から
徵命の事はいったん
この後を須つ事とし、
胡昭はそれ故即座には徵されなかった。
後に荀顗と黄休が復た
庾嶷と胡昭を推薦し、
詔が有って本州の評議を訪う事となった。
侍中の韋誕が反駁して言った。
「賢者を礼遇し士を徵す事は
王政の重んじる所にございまして、
古代の者は郷里での行いを考査しました。
今、荀顗等の位は皆常伯、納言であり
庾嶷は卿佐となっておりますから
取り上げて信任するに足りましょう。
下に懐附し、上を欺罔(だます)する事は
忠臣の行わざる所であります。
胡昭は徳を宿した耆艾(老人)であり
山林に遺逸しておりますが
誠に特別(な沙汰)を加えられるべきかと」
かくて、韋誕の議に従った。
(註釈)
何氏も晋代に活躍。
江南の方の出身にも関わらず
中原で名を為してるからすごい。
何充は晋書の77巻に伝がある。
93巻の外戚伝に出てくる何准もこの一門。
韋誕は、馬超伝や荀彧伝などにも登場。




