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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十一、管寧伝
534/603

註十二〜十四、司馬周馬杜庾

註12.

高士傳曰:初,晉宣帝為布衣時,與昭有舊。同郡周生等謀害帝,昭聞而步陟險,邀生於崤、澠之間,止生,生不肯。昭泣與結誠,生感其義,乃止。昭因與斫棗樹共盟而別。昭雖有陰德於帝,口終不言,人莫知之。信行著於鄉黨。建安十六年,百姓聞馬超叛,避兵入山者千餘家,飢乏,漸相劫略,昭常遜辭以解之,是以寇難消息,衆咸宗焉。故其所居部落中,三百里無相侵暴者。

(訳)

高士伝にいう、

当初、晋の宣帝(司馬懿)が

布衣(一般身分)であった時、

胡昭と旧交があった。


同郡の周生しゅうせいらが宣帝の殺害を謀ると

胡昭は聞いて徒歩で険峻をわたり、

周生をこうじょうの間で待ちうけて

周生を止めたが、周生は肯じなかった。


胡昭は泣きながら

ともに誠意を約束し、

周生はその義に感じ入り、

かくて取り止めた。


胡昭はそこで棗の樹を

共に盟約をむすんで別れた。


胡昭は宣帝が陰徳を有して

(いる事を承知して)はいても

終に口で言葉にはせず、

人もこれを知る事はなかった。


行いが信奉されている事が

郷党に於いて顕著であった。


建安十六年(211)、

百姓は馬超ばちょうが叛いたと聞き

兵を避けて入山する者は千余家であった。


飢えて窮乏し、漸次に

劫略し合うようになったが、

胡昭は常にへりくだった言辞で

これを解きほぐしてやり、

これによって寇掠の難事は途絶え、

衆人は咸とうとんだ。


故に、彼が居する部落内では

三百里にわたって

侵略し合う事がなかった。


註13.

高士傳曰:幽州刺史杜恕甞過昭所居草廬之中,言事論理,辭義謙敬,恕甚重焉。太尉蔣濟辟,不就。

(訳)

高士伝にいう、

幽州刺史の杜恕とじょが嘗て

胡昭の居する草廬そうろの中を通り過ぎた際、

(胡昭は)事えることの論理を述べたが

辞義は謙虚かつ恭敬であり

杜恕は甚だ(彼を)重んじた。


太尉の蒋済しょうせいが召辟したが、就任しなかった。


註14.

案庾氏譜:嶷字劭然,頴川人。子䨹字玄默,晉尚書、陽翟子。嶷弟遁,字德先,太中大夫。遁胤嗣克昌,為世盛門。侍中峻、河南尹純,皆遁之子,豫州牧長史顗,遁之孫,太尉文康公亮、司空冰皆遁之曾孫,貴達至今。

(訳)

庾氏譜ゆしふを勘案するに、

庾嶷ゆぎょくは字を劭然しょうぜん穎川えいせんの人である。


子の庾䨹(ゆしゅく)は字を玄黙げんもく

晋の尚書しょうしょ陽翟ようてき子であった。


庾嶷の弟の庾遁ゆとんは字を徳先とくせん

太中たいちゅう大夫たいふであった。


庾遁の胤嗣は克昌(栄える)し、

世にも盛んな家門となった。


侍中じちゅう庾峻ゆしゅん河南尹かなんいん庾純ゆじゅん

いずれも庾遁の子、

豫州牧の長史・庾顗ゆがいは庾遁の孫、

太尉、文康公の庾亮ゆりょう

司空の庾冰ゆひょうは庾遁の曾孫であり、

顕貴、栄達は昨今まで至っている。


(註釈)

胡昭が162年生まれ、

司馬懿が179年生まれだから

ずいぶん歳の離れた交友関係ね。


晋代に入ると五等爵が復活するので

公や侯の他にも伯、子、男の爵位が。


また、庾氏は晋の時代になると

めっちゃ出てくるので

覚えておいてください。


庾亮ゆりょうに至っては、晋書で

単独の巻を貰ってるくらいです。


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