註十二〜十四、司馬周馬杜庾
註12.
高士傳曰:初,晉宣帝為布衣時,與昭有舊。同郡周生等謀害帝,昭聞而步陟險,邀生於崤、澠之間,止生,生不肯。昭泣與結誠,生感其義,乃止。昭因與斫棗樹共盟而別。昭雖有陰德於帝,口終不言,人莫知之。信行著於鄉黨。建安十六年,百姓聞馬超叛,避兵入山者千餘家,飢乏,漸相劫略,昭常遜辭以解之,是以寇難消息,衆咸宗焉。故其所居部落中,三百里無相侵暴者。
(訳)
高士伝にいう、
当初、晋の宣帝(司馬懿)が
布衣(一般身分)であった時、
胡昭と旧交があった。
同郡の周生らが宣帝の殺害を謀ると
胡昭は聞いて徒歩で険峻を渉り、
周生を崤、澠の間で待ちうけて
周生を止めたが、周生は肯じなかった。
胡昭は泣きながら
ともに誠意を約束し、
周生はその義に感じ入り、
かくて取り止めた。
胡昭はそこで棗の樹を斫り
共に盟約をむすんで別れた。
胡昭は宣帝が陰徳を有して
(いる事を承知して)はいても
終に口で言葉にはせず、
人もこれを知る事はなかった。
行いが信奉されている事が
郷党に於いて顕著であった。
建安十六年(211)、
百姓は馬超が叛いたと聞き
兵を避けて入山する者は千余家であった。
飢えて窮乏し、漸次に
劫略し合うようになったが、
胡昭は常に遜った言辞で
これを解きほぐしてやり、
これによって寇掠の難事は途絶え、
衆人は咸とうとんだ。
故に、彼が居する部落内では
三百里にわたって
侵略し合う事がなかった。
註13.
高士傳曰:幽州刺史杜恕甞過昭所居草廬之中,言事論理,辭義謙敬,恕甚重焉。太尉蔣濟辟,不就。
(訳)
高士伝にいう、
幽州刺史の杜恕が嘗て
胡昭の居する草廬の中を通り過ぎた際、
(胡昭は)事えることの論理を述べたが
辞義は謙虚かつ恭敬であり
杜恕は甚だ(彼を)重んじた。
太尉の蒋済が召辟したが、就任しなかった。
註14.
案庾氏譜:嶷字劭然,頴川人。子䨹字玄默,晉尚書、陽翟子。嶷弟遁,字德先,太中大夫。遁胤嗣克昌,為世盛門。侍中峻、河南尹純,皆遁之子,豫州牧長史顗,遁之孫,太尉文康公亮、司空冰皆遁之曾孫,貴達至今。
(訳)
庾氏譜を勘案するに、
庾嶷は字を劭然、穎川の人である。
子の庾䨹は字を玄黙、
晋の尚書、陽翟子であった。
庾嶷の弟の庾遁は字を徳先、
太中大夫であった。
庾遁の胤嗣は克昌(栄える)し、
世にも盛んな家門となった。
侍中の庾峻、河南尹の庾純は
いずれも庾遁の子、
豫州牧の長史・庾顗は庾遁の孫、
太尉、文康公の庾亮、
司空の庾冰は庾遁の曾孫であり、
顕貴、栄達は昨今まで至っている。
(註釈)
胡昭が162年生まれ、
司馬懿が179年生まれだから
ずいぶん歳の離れた交友関係ね。
晋代に入ると五等爵が復活するので
公や侯の他にも伯、子、男の爵位が。
また、庾氏は晋の時代になると
めっちゃ出てくるので
覚えておいてください。
庾亮に至っては、晋書で
単独の巻を貰ってるくらいです。




