九・註十一、隠逸の二明、張臶と胡昭
9.
時鉅鹿張臶,字子明,頴川胡昭,字孔明,亦養志不仕。臶少游太學,學兼內外,後歸鄉里。袁紹前後辟命,不應,移居上黨。并州牧高幹表除樂平令,不就,徙遁常山,門徒且數百人,遷居任縣。太祖為丞相,辟,不詣。太和中,詔求隱學之士能消災復異者,郡累上臶,發遣,老病不行。廣平太守盧毓到官三日,綱紀白承前致版謁臶。毓教曰:「張先生所謂上不事天子,下不友諸侯者也。此豈版謁所可光飾哉!」但遣主簿奉書致羊酒之禮。青龍四年辛亥詔書:「張掖郡玄川溢涌,激波奮蕩,寶石負圖,狀像靈龜,宅于川西,嶷然磐峙,倉質素章,麟鳳龍馬,煥炳成形,文字告命,粲然著明。太史令高堂隆上言:古皇聖帝所未甞蒙,實有魏之禎命,東序之世寶。」事班天下。任令于綽連齎以問臶,臶密謂綽曰:「夫神以知來,不追已往,禎祥先見而後廢興從之。漢已乆亡,魏已得之,何所追興徵祥乎!此石,當今之變異而將來之禎瑞也。」正始元年,戴鵀之鳥,巢臶門陰。臶告門人曰:「夫戴鵀陽鳥,而巢門陰,此凶祥也。」乃援琴歌詠,作詩二篇,旬日而卒,時年一百五歲。是歲,廣平太守王肅至官,教下縣曰:「前在京都,聞張子明,來至問之,會其已亡,致痛惜之。此君篤學隱居,不與時競,以道樂身。昔絳縣老人屈在泥塗,趙孟升之,諸侯用睦。愍其耄勤好道,而不蒙榮寵,書到,遣吏勞問其家,顯題門戶,務加殊異,以慰旣往,以勸將來。」
(訳)
時に鉅鹿の張臶、字を子明、
頴川の胡昭、字を孔明もまた
志を養い、出仕していなかった。
張臶は少くして太学へ遊学し
内外を兼ねて学び、
その後郷里へと帰った。
袁紹の前後の辟命に応じず
上党へ移居した。
并州牧の高幹が上表して
楽平の令に除したが就任せず、
常山へと移りかくれると
門徒の数百人も任県へ転居した。
太祖が丞相となると
召辟されたが詣らなかった。
太和年間(227〜233)に詔が下され
隠学の士で、災禍をなくし
変異をもとに戻す事の
できる者が求められると、
郡は累ねて張臶について上言し
発たせて見おくろうとしたが、
老病のために行かなかった。
広平太守の盧毓が
官途について(赴任して)三日で、
綱紀は、前例を継承し
版(名ふだ)を致らせて
張臶に拝謁するよう建白した。
盧毓は教勅して言った。
「張先生は、所謂〝上は天子に事えず
下は諸侯と友さず〟というお方だ。
これでは、どうして
版によって拝謁する事が
光飾(輝かしい栄誉、的なニュアンスか)
となりえようか」
ただ主簿を遣わして書を奉らせ
羊と酒の礼物を致らせるのみにとどめた。
青龍四年(236)の辛亥に詔書が下された、
「張掖郡の玄川が涌溢し、
激浪が奮蕩(大暴れ)すると
宝石が(河)図を負い
形状は霊亀を象って川の西に居した。
嶷然と盤峙(屹立)して
蒼き質に白き章、
麒麟、鳳凰、龍、馬
(のタイプがあり)
煥然と形を成して文字は天命を告げ
燦然として著明であった。
太史令の高堂隆が上言するには、
〝古の帝、聖帝も未だ嘗て蒙る所ではなく
実に魏がめでたき天命を、
東序が世の宝を有した(あかしです)〟」
事は天下に頒布された。
任の令の于綽が
連ねて(石を)齎す事で張臶に問うと、
張臶は密かに于綽に謂った。
「そもそも神事は来たるもの(未来)
を予知する事で、
已に往きたもの(過去)に
追随する事などいたしません。
禎祥が先に見られ
後から興亡がこれに従うものです。
漢は已に滅亡して久しく、
魏は已にこれを得ておりますのに、
どうしてあとから勃興の
めでたき徴などございましょう。
この石は今の変異に相当し、
将来のめでたき瑞祥にございます」
正始元年(240)、戴鵀の鳥が
張臶の家門の陰に巣をつくると、
張臶は門人に告げて言った。
「そもそも戴鵀は陽の鳥であるが
門の〝陰〟に巣を作っている、
これは凶兆だ」
かくて琴を手に歌を詠み
詩二篇を作すと、旬日で卒してしまった。
時に、百五歳であった。
この年、広平太守の王肅が官途に至り
属県に教勅を下して言うには、
「以前に京都に在った際に
張子明(張臶)について聞き、
到着してから彼を訪問しようとしたが
折しも彼は已に亡くなっており
痛惜するに至ったものだ。
この君は学に篤実で、隠居して
即時的なものと競わず
道義によって身を楽しませた。
昔、絳県の老人が
屈従して泥塗(泥沼)に在った際、
趙孟がこれを升らせたため
諸侯は和睦を用いた。
彼が耄碌しても勤め、道を好みながらも
栄誉や恩寵を蒙っていない事を
愍れんでいる。
文章が到ったならば
吏人にその家を慰問させ
門戸を記して顕彰し、
殊更を加える事に務め、それにより
既に往きたもの(過去)を慰労し
将来を勤励せよ」
註11.
尚書·顧命篇曰:「大玉、夷玉、天球、河圖在東序。」注曰:「河圖,圖出於河,帝王聖者之所受。」
(訳)
尚書の顧命篇にいう、
「大玉、夷玉、天球、河図は東序にある」
注にいう、
「河図は、図が河にて出るもので
帝王、聖者の受ける所である」
(註釈)
孔明は諸葛亮さん一人じゃない、
ここにもいたということだ……!
(初登場時のトランクス
子明もまた呂蒙さん一人じゃない、
ここにもいt(ry
唐突に挿入される張臶伝と胡昭伝。
どちらも生涯仕官していない。
やはり魏書11巻は
後半にくると逸民伝だ。
管寧は享年84、王烈は享年78
胡昭は享年89、
張臶に至っては105歳まで生きた。
ここまで来ると偶然じゃあるまい、
やっぱ宮仕えなんかせずに
晴耕雨読、行雲流水の生活を送る方が
ストレス溜まらなくて
長生きできるんだろう。




