四・註八、管寧の生活
4.
自黃初至于青龍,徵命相仍,常以八月賜牛酒。詔書問青州刺史程喜:「寧為守節高乎,審老疾尪頓邪?」喜上言:「寧有族人管貢為州吏,與寧鄰比,臣常使經營消息。貢說:『寧常著皁帽、布襦袴、布裠,隨時單複,出入閨庭,能自任杖,不須扶持。四時祠祭,輙自力彊,改加衣服,著絮巾,故在遼東所有白布單衣,親薦饌饋,跪拜成禮。寧少而喪母,不識形象,常特加觴,泫然流涕。又居宅離水七八十步,夏時詣水中澡灑手足,闚於園圃。』臣揆寧前後辭讓之意,獨自以生長潛逸,耆艾智衰,是以栖遲,每執謙退。此寧志行所欲必全,不為守高。」
(訳)
黄初年間(220〜226)から
青龍年間(233〜236)に至るまで
徵命が相次ぎ、
常に八月には牛と酒を賜った。
詔書が下され、
青州刺史の程喜に問うて言うには、
「管寧は高節を守っているが
老いさらばえて病に苦しんでいるのは
確かなのか?」
程喜は上言した。
「管寧の族人に管貢がおり
州の吏人となって
管寧とは(家が)隣にならんでおり、
臣は常に消息(音信)のために
経営(往来)させております。
管貢は言っておりました、
〝寧は常に皁帽を身につけ
襦袴、裠をはいて
時節に随って単衣複衣をかえ、
閨庭(家庭)への出入りの際は
能く自ら杖に任せて
扶助を必要としません。
四季の祠祭には
その都度自ずから力を強め、
改めて衣服を加えて
絮巾を身につけ、
かつて遼東に在った際に
所有していた白い単衣を着て
みずから饌饋(貴人へ供える食事)を薦め
跪拝して礼を成します。
管寧は少くして母を喪い
形象(容姿)を識らず、
常々特別に觴を加えると
泫然と流涕しております。
また、居宅は水辺から七、八十歩離れており
夏の頃には水中へ詣って
手足を澡灑(洗浄)してから
園圃を闚っております〟
臣が、管寧の前後における
謙譲、辞退の意思を揆りますに、
獨り自らを以て隠逸のなかに成長し、
耆艾(年をとる)して智力は衰え、
この事から栖遅して
常に謙退を執っているのです。
こうした管寧の志は
どうしても全生しようと
している所であり、
高節を守る為ではございません」
註8.
高士傳曰:管寧自越海及歸,常坐一木榻,積五十餘年,未甞箕股,其榻上當膝處皆穿。
(訳)
高士伝にいう、
管寧は海を越えて帰るに及んでから
常に一木の榻に坐し
五十余年を過ごしたが
未だ嘗て箕股(箕踞)した事がなく
その榻の上で膝の当たる処には
すべて穴があいていた。
(註釈)
「経営」に「往来する」って意味があるのね。
「審老疾尪頓邪?」の訳がちょっとあやしい。
ニュアンス的には
節義を守ろうとしてるというより
本当は年老いて病気になっちゃったから
出仕しないんじゃないのか? っていう。




