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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十一、管寧伝
526/603

註四・註五、滞在期間三十七年

註4.

傅子曰:是時康又已死,嫡子不立而立弟恭,恭懦弱,而康孽子淵有儁才。寧曰:「廢嫡立庶,下有異心,亂之所由起也。」乃將家屬乘海即受徵。寧在遼東,積三十七年乃歸,其後淵果襲奪恭位,叛國家而南連吳,僭號稱王,明帝使相國宣文侯征滅之。遼東之死者以萬計,如寧所籌。寧之歸也,海中遇暴風,船皆沒,唯寧乘船自若。時夜風晦冥,船人盡惑,莫知所泊。望見有火光,輒趣之,得島。島無居人,又無火燼,行人咸異焉,以為神光之祐也。皇甫謐曰:「積善之應也。」

(訳)

傅子にいう、

この時、公孫康こうそんこうもまた已に死んでおり、

嫡子が立てずに弟の公孫恭こうそんきょうを立てたが、

公孫恭は惰弱であり、

公孫康の孽子(婢女の子)の公孫淵こうそんえん

俊才を有していた。


管寧は言った。


「嫡子を廃して庶子を立てれば

下に異心が生じてしまいます、

混乱の起こる由縁です」


かくて家属を率いて海を乗り越え

即座にお徵しを受けた。


管寧は遼東に在って

三十七年を経てようやく帰り、

その後、果たせるかな公孫淵は

公孫恭を襲って位を奪い、

国家に叛いて南方の呉と連衡し

僭号して王を称した。


明帝は相国の宣文侯(司馬懿)に

これを征討させ、滅ぼした。


遼東の使者は万をかぞえ、

管寧のはかる所の如くとなった。


管寧は帰還する際に

海中で暴風に遭遇し、

船はすべて水没してしまったが

ただ管寧の乗る船のみが自若としていた。


時に、夜風の吹く晦冥(暗闇)のなかで

乗船者は盡く混乱しており

停泊する所もわからずにいた。


望見すると火光があり、

すぐにこれに赴くと、島を発見した。


島には居住者がおらず、

一方で火燼(燃えカス)もなかったため

同行者はみな奇異な事で

神光のたすけであると見なした。


皇甫謐こうほひつはこう言っている。


「善を積んだ応験である」


註5.

傅子曰:寧上書天子,且以疾辭,曰:「臣聞傅說發夢,以感殷宗,呂尚啟兆,以動周文,以通神之才悟於聖主,用能匡佐帝業,克成大勳。臣之器朽,實非其人。雖貪清時,釋體蟬蛻。內省頑病,日薄西山。唯陛下聽野人山藪之願,使一老者得盡微命。」書奏,帝親覽焉。

(訳)

傅子にいう、

管寧は天子に上書し

かつ病疾によって辞退して言った。


「臣の聞くところでは

傅説は夢を発する事で殷宗を感応させ

呂尚りょしょうは卜兆の啓示によって

周の文王を動かしました。


神通の才によって聖主を感悟させ

用いられて能く帝業を補佐し

大功を成しとげました。


臣の器は朽ち、実際はそのような

人物にございませぬ。


清らかな時代を貪っていると雖も

体はすてられ、蝉の脱けがらの

ようでございまして、

内には頑固な病を省み

日は西山にせまっております。

(日が沈みかけている=瀕死)


ただ陛下には山藪の野人の願いを

お聞き届けいただき、

一個の老人の微かな命を

まっとうさせてくださいませ」


書が上奏されると

帝はみずからご覧になった。


(註釈)

37年!?


公孫度(公孫淵)伝によると

太和二年(228)に

公孫淵は公孫恭を脅して

位を奪ったって書いてあるので

190年前後くらいから

遼東にいたっちゅー事に。


周瑜の人生より長い時を

管寧は遼東で過ごしていたのか。


公孫淵が238年に司馬懿にやられるのは

晋書で見てきた通りです。


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