三、草莽の臣
3.
中國少安,客人皆還,唯寧晏然若將終焉。黃初四年,詔公卿舉獨行君子,司徒華歆薦寧。文帝即位,徵寧,遂將家屬浮海還郡,公孫恭送之南郊,加贈服物。自寧之東也,度、康、恭前後所資遺,皆受而藏諸。旣已西渡,盡封還之。詔以寧為太中大夫,固辭不受。明帝即位,太尉華歆遜位讓寧,遂下詔曰:「太中大夫管寧,耽懷道德,服膺六藝,清虛足以侔古,廉白可以當世。曩遭王道衰缺,浮海遁居,大魏受命,則襁負而至,斯蓋應龍潛升之道,聖賢用舍之義。而黃初以來,徵命屢下,每輙辭疾,拒違不至。豈朝廷之政,與生殊趣,將安樂山林,往而不能反乎!夫以姬公之聖,而耇德不降,則鳴鳥弗聞。以秦穆之賢,猶思詢乎黃髮。況朕寡德,曷能不願聞道于子大夫哉!今以寧為光祿勳。禮有大倫,君臣之道,不可廢也。望必速至,稱朕意焉。」又詔青州刺史曰:「寧抱道懷貞,潛翳海隅,比下徵書,違命不至,盤桓利居,高尚其事。雖有素履幽人之貞,而失考父茲恭之義,使朕虛心引領歷年,其何謂邪?徒欲懷安,必肆其志,不惟古人亦有翻然改節以隆斯民乎!日逝月除,時方已過,澡身浴德,將以曷為?仲尼有言:『吾非斯人之徒與而誰與哉!』其命別駕從事郡丞掾,奉詔以禮發遣寧詣行在所,給安車、吏從、茵蓐、道上廚食,上道先奏。」寧稱「草莽臣」上疏曰:「臣海濵孤微,罷農無伍,祿運幸厚。橫蒙陛下纂承洪緒,德侔三皇。化溢有唐。乆荷渥澤,積祀一紀,不能仰荅陛下恩養之福。沈委篤痾,寢疾彌留,逋違臣隷顛倒之節,夙宵戰怖,無地自厝。臣元年十一月被公車司馬令所下州郡,八月甲申詔書徵臣,更賜安車、衣被、茵蓐,以禮發遣,光寵並臻,優命屢至,怔營竦息,悼心失圖。思自陳聞,申展愚情,而明詔抑割,不令稍脩章表,是以鬱滯,訖于今日。誠謂乾覆,恩有紀極,不意靈潤,彌以隆赫。奉今年二月被州郡所下三年十二月辛酉詔書,重賜安車、衣服,別駕從事與郡功曹以禮發遣,又特被璽書,以臣為光祿勳,躬秉勞謙,引喻周、秦,損上益下。受詔之日,精魄飛散,靡所投死。臣重自省揆,德非園、綺而蒙安車之榮,功無竇融而蒙璽封之寵,楶梲駑下,荷棟梁之任,垂沒之命,獲九棘之位,懼有朱博鼓妖之眚。又年疾日侵,有加無損,不任扶輿進路以塞元責。望慕閶闔,徘徊闕庭,謹拜章陳情,乞蒙哀省,抑恩聽放,無令骸骨填於衢路。」
(訳)
中国(中原)が少し落ち着くと
客寓した人々はみな帰還してきたが
ただ管寧だけは晏然として
終焉せんとするかのようだった。
黄初四年(223)、
公卿に詔を下して
独行の君子を推挙させると
司徒の華歆は管寧を推薦した。
文帝は即位すると管寧を徵し、
(管寧は)遂に家属を率いて
海をただよい、郡(故郷の北海)へと帰還した。
公孫恭はこれを南郊にて見送り、
加えて服物を贈った。
管寧は東方へ之きてから
公孫度、公孫康、公孫恭が
前後にわたっておくった資財を
皆受け取ってしまっておいたが、
西へ渡った後、盡く封をしてこれを返還した。
詔によって管寧は
太中大夫となったが、
固辞して受けなかった。
明帝が即位すると、
太尉の華歆は位を遜って管寧に譲ろうとし
かくて詔が下された。
「太中大夫の管寧は道徳を耽懐(耽思)し、
六芸を服膺(心に置く)して、
清らかな淡白さは古とならべるに足り、
廉直、潔白ぶりは世に当てる事ができる。
曩時は王道の衰退、欠缺に遭遇して
海をただよって隠居し、
大魏が天命を受けると則ち
襁を背負って至ったが、
蓋し応龍の潜升(昇降)の道、
聖賢の用捨(取捨)の義である。
黄初(文帝曹丕の治世の元号)以来、
徴命が屢々《しばしば》下されたが
その都度病疾によって辞退し
拒み、違えては至らなかった。
どうして朝廷の政が
生と趣旨がことなるものとし
山林に安楽せんとして
往きながら戻れぬのであろうか。
そもそも姫公(周王)の聖徳を以ってしても
耇德(年を取った有徳者)が降らずば
則ち鳥の鳴く声も聞かれなかった。
秦の穆公の賢明を以ってしても
なお黄髪(老人)に諮詢している。
況してや朕は徳が寡なく、
どうして子のような大夫に
道を聞きたいと願わずにいられよう。
今、管寧を光禄勲とする。
礼には大倫があり
君臣の道を廃れさせてはならない。
必ずや迅速に至り
朕の意思をかなえてくれる事を望む」
また、青州刺史に詔を下して述べるには、
「管寧は道義、貞正を抱懐し
海隅に潜みかくれている。
近頃徵書を下したが
命を違えて至らず
盤桓(徘徊)して居する事を利とし
そうした事を高尚なものと見なしている。
素朴を履みおこなう幽人(逸民)の
貞しさが有ると雖も
考父の茲れば恭しくなるという
義を失しており、
朕が心を虚しくさせ
引領(首を長くして待つ)して
年をかさねているのに
いったいどういうつもりなのだ?
徒らに安逸を貪ろうとし
どうしてもその志を肆に
しようとしているが、
古人もまた翻然と節を改めて
斯く民を興隆させた事を思惟せぬのか!
日は逝き月は除かれ
時はまさに過ぎ去ろうとしているのに
身を澡め徳にひたっているが
何をしよう(ができよう)というのだ。
仲尼(孔子)の言葉にある、
〝吾は斯の人の徒にあらねば
誰とともにするというのだ〟
別駕、従事、郡の丞や掾にそう命令し、
詔を奉じる事で礼を発して
管寧を所在までいたらせ、
安車、吏人従者、茵蓐、
途上の廚食を支給し、
道に上らば先ず上奏せよ」
管寧は「草莽の臣」を称し、上疏して言った。
「臣は海濵の孤微(独り身の卑賤者)で
農業を罷めて、伍もおらず、
俸禄の運は幸甚にすぎます。
過分を蒙るは、
陛下が洪緒を纂承(継承)され
御徳は三皇とならばれ、
御教化が唐をこえているお陰にございます。
久しく渥澤(恩沢)を荷い
祭祀を積んで一紀(12年)となりますが
陛下の御恩によるお養い、
その祝福を仰ぎ、お答え(応え)する
ことがかなわずにおります。
篤い痾に沈委(憔悴)し、
病臥してひさしく留まってしまい
臣隷として顛倒する節義を遵守できず
夙夜戦々恐々として、自らを
厝く地もない思いがいたします。
臣は元年十一月に公車司馬が
州郡に下した命令を被り、
八月甲申には臣を徵し
あらためて安車、衣被、茵蓐を賜り
礼によって出発を見送るよう
詔書が下されましたが、
光り輝く恩寵がいっせいに臻り
優かな御命が屢々至りて
恐れ多くて落ち着かず(怔營)、
息を竦む思い(恐縮)で、
心を悼め意図を失しております。
自ら陳情いたそうと思い至って
愚心を申し展べようとしましたが
聖詔にて抑制され、
稍稍に章表を収める事も禁止されて
この事から鬱没と停滞したまま
今日まで訖ってしまいました。
誠に乾(天)が覆うかのような
恩寵の至極が存在したと謂うもので
神聖なる潤沢がますます
隆赫(盛大)になるとは
意いも致しませんでした。
今年の二月に州郡に下された
三年十二月辛酉の詔書を奉るに、
重ねて安車、衣服を賜り、
別駕、従事と郡の功曹が礼を以て
出発を見送ってくださるとの事。
一方で特別に璽書を被り
臣を光禄勲として御躬ら功労を秉られ
周・秦を引きあいとして喩えられ
上を損じ、下を益されました。
詔をお受けした日には
精魄(精魂)も飛散して
身をなげうち死ぬこともできませぬ。
臣が重ねて自らを省みるに
園、綺の徳義もなしに
安車の労を蒙り、
竇融の功績もなしに
璽封の恩寵を蒙っており、
楶梲(梁上の短い柱)、
駑下(愚鈍)でありながら
棟梁の任を荷い、
垂没(死にかけ)の命で
九棘の位を獲得するとあっては
朱博の鼓妖の眚(災難)が
有るのではないかと恐懼しております。
また、年疾(持病)に日ごと侵され
悪化することがあっても
寛解することはございません。
輿に扶けられて路を進むのでは
元来の責務を逼塞させてしまい
受任する事ができませぬ。
閶闔(天門)を仰慕し
闕庭(宮廷)を徘徊して
謹んで憲章を拝見し陳情いたしました。
願わくば哀れみと省みをいただき
恩沢をお抑えして
奔放をお聴き入れください。
衢路に骸骨を填めさせないでくださいませ」
(註釈)
珍しく陳寿が長文で裴註が短いパターンだけど
詔書と上奏文ならなっとく。
当時の上奏文や詔書が当時も残ってたんかな。
邴原は曹操が司空になる(196年〜)
タイミングで中原に戻ってきたけど、
管寧は曹丕の代になる(220年〜)
まで遼東に居続けた。
彼の目から見て、公孫度や公孫康は決して
悪い為政者じゃなかったって事でもあるよね。
少なくとも、生命を全うするだけなら
中原に帰る必要性は薄いものと
彼は思っている事になる。
次に魏書を読む事になった際には
公孫度伝が入っている8巻に
スポットを当てようかと思います。
この人たちめちゃくちゃ気になる。
黄初四年(223)にはすでに
曹丕が即位しているのに、そのあと
「文帝が即位すると」とあるのはミス?
青州に戻ってきたあとも
管寧は徴命に応じてくれない。
公孫氏からの贈り物全部突き返してるし
生活水準を上げる事と
生きる事とは彼の中で
必ずしもイコールじゃないんだね。
曹丕が死に、曹叡の代になっても、
まだ応じようとしない。
曹叡は諸葛誕に対して
画餅云々とか言っちゃったり
劉曄から、始皇帝や
漢武帝の類だとか言われてるから
実利を重視してるイメージが強い。
そんな曹叡のイメージからすると、
管寧の高い名声は虚名ではないのか?
って懐疑的になるのは
とても納得できるというか
名と実が一致していないのは
曹叡の価値観的に
看過できないんだろうなぁ、と。
詔の剣呑さから、そう感じました。
管寧の話に出てくる
「園」は東園公、「綺」は綺里季。
どちらも前漢の人。
漢書72巻の序文に出てきた↓
漢興有園公、綺里季、夏黃公、甪里先生,此四人者,當秦之世,避而入商雒深山,以待天下之定也。自高祖聞而召之,不至。其後呂后用留侯計,使皇太子卑辭束帛致禮,安車迎而致之。四人既至,從太子見,高祖客而敬焉,太子得以為重,遂用自安。語在留侯傳。
園公、綺里季、夏黄公、角里先生の四者は
秦の時代に難を避け
天下が平定されるのを待っていた。
高祖が噂を聞いて呼び寄せたが、来ない。
その後、呂后が張良の計を用い
安車によって彼らを迎えた。
食客として迎えられ
恵帝(の世)は彼らを用いることで安定した。
彼らレベルの徳がない私には
安車(老人をいたわる車)で
迎えられる資格はないです、と謙遜してる。
「竇融」は光武帝の時代の武将。
范曄後漢書では単巻をもらってる大物で
雲台28将には入っていないが
勝ち馬に乗るタイミング超絶妙。
子孫の竇固や竇武も後漢を語る上では
欠かせない人物。
地味に光武帝の臣下でいちばん
引き合いに出されてるのは、竇融かも。
「朱博」も前漢の人、漢書83巻に伝あり。
また、五行志に妙なエピソードが載っている↓
哀帝建平二年四月乙亥朔,御史大夫朱博為丞相,少府趙玄為御史大夫,臨延登受策,有大聲如鍾鳴,殿中郎吏陛者皆聞焉。上以問黃門侍郎揚雄、李尋,尋對曰:「洪範所謂鼓妖者也。師法以為人君不聰,為眾所惑,空名得進,則有聲無形,不知所從生。其傳曰歲月日之中,則正卿受之。今以四月日加辰巳有異,是為中焉。正卿謂執政大臣也。宜退丞相、御史,以應天變。然雖不退,不出期年,其人自蒙其咎。」揚雄亦以為鼓妖,聽失之象也。朱博為人彊毅多權謀,宜將不宜相,恐有凶惡亟疾之怒。八月,博、玄坐為姦謀,博自殺,玄減死論。京房易傳曰:「令不修本,下不安,金毋故自動,若有音。」
朱博が丞相となって
叙任を受けようというとき
大きな鐘の音が聞こえたのだという。
哀帝が黄門侍郎の揚雄、李尋に
わけをたずねると、李尋答えて、
「洪範のいう鼓妖です。
人君が聡明でなく、人々を惑わせ、
虚名によって昇進すると
則ち、鐘の実体がないのに
音が聞こえるのです」
揚雄もまた鼓妖と見なした。
朱博の人となりは剛毅で権謀が多く
丞相には不釣り合い。
八月に姦謀の咎で自殺した。
前漢、後漢の人を賛美して
自分は「草莽の臣」て言ってるの
魏=王莽のような簒奪者
って暗に指弾してるんじゃないのかな。
11巻ははじめ、屯田絡みの人を
集めたのかなと思ってたけど
後半は逸民伝らしさが強くなるね。




