二・註三、いきなり、王烈伝説
2.
王烈者,字彥方,於時名聞在原、寧之右。辭公孫度長史,商賈自穢。太祖命為丞相掾,徵事,未至,卒於海表。
(訳)
王烈は字を彦方、当時に於いて
名聞は邴原や管寧の右にあった。
公孫度の長史を辞し、
商売として自らを穢した。
太祖の命で丞相の掾、徵事となったが
至らぬうちに海表で卒した。
註3.
先賢行狀曰:烈通識達道,秉義不回。以潁川陳太丘為師,二子為友。時潁川荀慈明、賈偉節、李元禮、韓元長皆就陳君學,見烈器業過人,歎服所履,亦與相親。由是英名著於海內。道成德立,還歸舊廬,遂遭父喪,泣淚三年。遇歲饑饉,路有餓殍,烈乃分釜庚之儲,以救邑里之命。是以宗族稱孝,鄉黨歸仁。以典籍娛心,育人為務,遂建學校,敦崇庠序。其誘人也,皆不因其性氣,誨之以道,使之從善遠惡。益者不自覺,而大化隆行,皆成寶器。門人出入,容止可觀,時在市井,行步有異,人皆別之。州閭成風,咸競為善。時國中有盜牛者,牛主得之。盜者曰:「我邂逅迷惑,從今已後將為改過。子旣已赦宥,幸無使王烈聞之。」人有以告烈者,烈以布一端遺之。或問:「此人旣為盜,畏君聞之,反與之布,何也?」烈曰:「昔秦穆公,人盜其駿馬食之,乃賜之酒。盜者不愛其死,以救穆公之難。今此盜人能悔其過,懼吾聞之,是知恥惡。知恥惡,則善心將生,故與布勸為善也。」間年之中,行路老父擔重,人代擔行數十里,欲至家,置而去,問姓名,不以告。頃之,老父復行,失劒於路。有人行而遇之,欲置而去,懼後人得之,劒主於是永失,欲取而購募,或恐差錯,遂守之。至暮,劒主還見之,前者代擔人也。老父擥其袂,問曰:「子前者代吾擔,不得姓名,今子復守吾劒于路,未有若子之仁,請子告吾姓名,吾將以告王烈。」乃語之而去。老父以告烈,烈曰:「世有仁人,吾未之見。」遂使人推之,乃昔時盜牛人也。烈歎曰:「韶樂九成,虞賔以和:人能有感,乃至於斯也!」遂使國人表其閭而異之。時人或訟曲直,將質於烈,或至塗而反,或望廬而還,皆相推以直,不敢使烈聞之。時國主皆親驂乘適烈私館,疇諮政令。察孝廉,三府並辟,皆不就。會董卓作亂,避地遼東,躬秉農器,編於四民,布衣蔬食,不改其樂。東域之人,奉之若君。時衰世弊,識真者少,朋黨之人,互相讒謗。自避世在東國者,多為人所害,烈居之歷年,未甞有患。使遼東彊不淩弱,衆不暴寡,商賈之人,市不二價。太祖累徵召,遼東為解而不遣。以建安二十三年寢疾,年七十八而終。
(訳)
先賢行状にいう、
王烈は見識、道徳に通達しており
義にのっとり、まげる事がなかった。
穎川の陳太丘(陳寔)を師として
二人の子を友とした。
時に穎川の荀慈明(荀爽)、賈偉節(賈彪)、
李元礼(李膺)、韓元長(韓融)は
みな陳君の学派に就いており
王烈の器量や学業が人に過ぎたるを見て
感服して履みおこない、
やはりともに親善となった。
このことに由り
海内に英名を顕著なものとした。
道と徳が成立すると、
旧い廬へと帰還して
遂には父の喪に遭遇し、
涕泣する事が三年であった。
飢饉の年に遭遇した際、
路に餓殍(餓死者)が有ると
王烈はそこで釜庚の儲け(僅かな蓄え)
を分け、邑里の者を救命した。
これにより宗族は孝行を称え
郷党は仁心に帰服した。
典籍によって心を娯しませ、
人を育てる事を務めとし、
遂には学校を建てて庠序を尊崇した。
彼が人を誘導する際は
いずれもその性気に因る事なく
教誨は道義によるものであり
これを善に従わせ悪から遠ざからせた。
益者(王烈により進歩した者)は
自覚する事なく、
大いなる教化が隆盛して行き渡り、
皆が宝器と成った。
門人の出入りの際の
容止(挙動)は観るべきところがあり、
時に市井に在っても
行步(歩行)に異なる点が有り
人はみなこれを分別した。
州の閭は風化を成し
咸が競って善事を為した。
時に国中に牛を盗む者があり
牛の持ち主がこれ(牛泥棒)を得ると、
盗人は言った。
「我は※迷惑に邂逅し
(※日本語と意味が異なる、心の迷いのこと)
今から以後は過ちを改めようと思います。
子は已に容赦なさいましたからには
どうか王烈どのにこの事を
お聞かせなさらないでくださいませ」
王烈に告げた者がおり、
王烈は布一端をこれにおくった。
或る者が問うて言った。
「この人は既に盗みを為しながら
君がこれを聞くのを畏れておりました。
反対に布を与えたのは、どうしてですか?」
王烈は言った。
「昔、秦の穆公は
人がその駿馬を盗んでこれを食べた時
これに酒を賜った。
盗人は、その死をも愛しまずに
穆公の難を救った。
今、この盗人は、その過ちを
悔いることができ、
吾がこれを聞く事を懼れていたが、
これは、悪事を恥じるのを
わきまえているという事だ。
悪事を恥じるのをわきまえていれば
則ち、善心が生じよう。
故に布を与えて
善を為すことを勧めたのだ」
間年のうち(一年?)に
路を行く老父が重いものを担いでいると、
人が(おじいさんに)代わって
担いながら数十里を行き、
家まで至ろうと欲して、
(重い荷物を)置いて去っていった。
(老人は荷物を運んでくれた人に)
姓名を問うたが、告げなかった。
ややあって、老父がまた出行した際に
路に於いて剣を失った。
通行中にこれ(老人が落とした剣)と
出くわした人がおり、
捨て置いたまま去ろうとしたが、
後からきた人がこれを得て
剣の持ち主がこの事から
永久に失ってしまう事を懼れた。
(剣を)取って
購募(賞金を懸けて募集)しようとしたが
差錯(人違い)があるかもしれないと恐れて
遂にはこれを守ることとした。
暮れに至って、
剣の持ち主(老人)が戻ってきて
これ(剣を拾った人)に見えてみると、
以前に(荷物を)代わって
担ってくれた人であった。
老父はその袂を擥り、問うて言った。
「子は以前吾に代わって担ってくださったが
姓名がわかりませんでした。
今、子は再び吾の剣を路にて
守ってくださった。
いまだ、子の若き仁者はおりません。
どうか吾に姓名を教えてください、
吾は王烈どのにお告げいたしましょう」
そこで、これ(名前)を告げて去っていった。
老父が王烈に告げると、王烈は言った。
「世に仁者がおるのに、
吾はいまだこれに見えておらぬ」
遂には人を使わしてこれをたずねたところ
なんと、昔牛を盗んだ人であった。
王烈は感歎して言った。
「韶楽は九から成り
虞の賔を調和させたが、
人を能く感応する事があれば
ここまでに至るのか!」
遂には国人を使わして
その閭を表彰し、
これを異(立派なもの)とした。
当時の人は、曲直をあらそって
王烈に質ねようとする事があれば
或いは塗に至って反転したり
或いは廬を望んで帰還したりした。
皆が廉直を以て※たずね合い
(※原文は推だがニュアンスが掴めない)
敢えて王烈にこれを聞かせようとしなかった。
時に国主は、みなみずから
驂に乗って王烈の私邸へゆき、
政令について訪問した。
孝廉に察挙され、
三府(三公の府)が揃って召辟したが
いずれにも就任しなかった。
ちょうど董卓が乱を作し、
遼東の地に避難した。
躬ら農器具を秉り、
四民(士・農・工・商)に編入された。
布衣蔬食(粗末な服、食事)ながら
その楽しみを改めなかった。
東の境域の人々は
主君の若くに彼を奉った。
当時は衰退した世で
(人々は)疲弊しており、
真を識る者は少なく、
朋党(政治的党派)の人々は
相互に讒謗し合っていた。
自ら世を避けて東国に在る者の
多くは人の為に害されていたが、
王烈はこれに居して年をかさねながら
未だ嘗て憂患にあうことがなかった。
遼東の強者に、弱者を凌がせることはなく
衆(多数)に寡(少数)へ乱暴させず、
商売人には市で※二價をさせなかった。
(※客によって値段を変えること、かな)
太祖は累ねて徵召したが
遼東は弁解をしてゆかせなかった。
建安二十三年(218)を以て
病臥し、七十八歳で臨終した。
(註釈)
管寧伝にするっと王烈伝を挟んでくる。
次の項からまた管寧に戻ります。
王烈は後漢書の「独行伝」の最後に出てくる。
参照してみると、并州は太原郡の出身。
(あとはほぼここの記述と重複してる)
つまり太原王氏。
邴原伝の引く献帝起居註だと
邴原が丞相徴事になった時いっしょに
「平原の王烈」も就任したとあった。
陳寿も「平原の王烈」と書いてるけど
太原出身って情報はどっから来たのかな。
并州太原→青州平原→幽州遼東
と移っていったってだけ?
218年に数え78歳だから、
141年生まれ。劉表の1コ上。
党錮の禁の時にアラサー、
黄巾の乱の時はアラフォー、
董卓が乱を起こした時はアラフィフ。
管寧伝に挿話されるし
「名聞は右にあった」とあるから
同年代かと錯覚しちゃうけど、
王烈は管寧(158年生)よりかなり年上。
・王烈評
戦闘 ★★★★ 4
戦略 ★★★★★★ 6
内政 ★★★★ 4
人格 ★★★★★★★ 7
「自らを穢し」てまで
仕官を拒否したわけだから
内政はマイナスとし、
盗人を感化させたのは
人格面にプラスしました。




