註三中、孔融「根矩、カムバーック!」
註3-2.
時魯國孔融在郡,教選計當任公卿之才,乃以鄭玄為計掾,彭璆為計吏,原為計佐。融有所愛一人,常盛嗟嘆之。後恚望,欲殺之,朝吏皆請。時其人亦在坐,叩頭流血,而融意不解。原獨不為請。融謂原曰:「衆皆請而君何獨不?」原對曰:「明府於某,本不薄也,常言歲終當舉之,此所謂『吾一子』也。如是,朝吏受恩未有在某前者矣,而今乃欲殺之。明府愛之,則引而方之於子,憎之,則推之欲危其身。原愚,不知明府以何愛之?以何惡之?」融曰:「某生於微門,吾成就其兄弟,拔擢而用之;某今孤負恩施。夫善則進之,惡則誅之,固君道也。往者應仲遠為泰山太守,舉一孝廉,旬月之間而殺之。夫君人者,厚薄何常之有!」原對曰:「仲遠舉孝廉,殺之,其義焉在?夫孝廉,國之俊選也。舉之若是,則殺之非也;若殺之是,則舉之非也。詩云:『彼己之子,不遂其媾。』蓋譏之也。語云:『愛之欲其生,惡之欲其死。旣欲其生,又欲其死,是惑也。』仲遠之惑甚矣。明府奚取焉?」融乃大笑曰:「吾但戲耳!」原又曰:「君子於其言,出乎身,加乎民;言行,君子之樞機也。安有欲殺人而可以為戲者哉?」融無以荅。是時漢朝陵遲,政以賄成,原乃將家人入鬱洲山中。郡舉有道,融書喻原曰:「脩性保貞,清虛守高,危邦不入,久潛樂土。王室多難,西遷鎬京。聖朝勞謙,疇咨儁乂。我徂求定,策命懇惻。國之將隕,釐不恤緯,家之將亡,緹縈跋涉,彼匹婦也,猶執此義。實望根矩,仁為己任,授手援溺,振民於難。乃或晏晏居息,莫我肯顧,謂之君子,固如此乎!根矩,根矩,可以來矣!」原遂到遼東。遼東多虎,原之邑落獨無虎患。原甞行而得遺錢,拾以繫樹枝,此錢旣不見取,而繫錢者愈多。問其故,荅者謂之神樹。原惡其由己而成淫祀,乃辨之,於是里中遂斂其錢以為社供。後原欲歸鄉里,止於三山。孔融書曰:「隨會在秦,賈季在翟,諮仰靡所,歎息增懷。頃知來至,近在三山。詩不云乎,『來歸自鎬,我行永久』。今遣五官掾,奉問榜人舟楫之勞,禍福動靜告慰。亂階未已,阻兵之雄,若棊奕爭梟。」原於是遂復反還。積十餘年,後乃遁還。南行已數日,而度甫覺。度知原之不可復追也,因曰:「邴君所謂雲中白鶴,非鶉鷃之網所能羅矣。又吾自遣之,勿復求也。」遂免危難。自反國土,原於是講述禮樂,吟詠詩書,門徒數百,服道數十。
(訳)
時に魯国の孔融が郡に在り、
公卿に任じるべき才を
計として選抜せよとの教勅があった。
(孔融は)そこで鄭玄を計掾、
彭璆を計吏、邴原を計佐とした。
孔融に愛されていた一人の者がおり、
(孔融は)常にこれを嗟歎する事が盛んであった。
その後、(孔融は)怨望をいだいて
これを殺そうとしたが、
朝吏は皆(赦免を)要請した。
時に、その人(孔融に気に入られてた人)も
また坐に在って、
叩頭して血を流していたが
孔融の気持ちは解れなかった。
邴原は獨りだけ(赦免の)要請をせず、
孔融は邴原に向かって謂った。
「衆人は皆要請しているのに
君はどうして獨りだけ(要請)せぬのかね?」
邴原は対して言った。
「明府(孔融)は某に於いて
もとより薄遇はしておらず
常に歳末には彼を推挙しようと
仰っておりましたが、これは
所謂〝吾一子〟というものです。
かくの如くに、朝吏のうちで
いまだかつて某ほどに
(孔融から)恩を受けた者は
おりませんでしたが、
今は彼を殺そうとしておられます。
明府は彼を愛した際には則ち
引き入れて彼を子にならべますが、
彼を憎んだ際には則ち
彼を推してその身を危険に晒そうとなさる。
原は愚かで、明府が何によって
彼を愛しているのか、
何によって彼を憎んでいるのか
わからないのです」
孔融は言った。
「某は微門(寒門)の生まれで、
吾はその兄弟を成就させ
彼を抜擢して用いた。
某は今、孤の施した恩に負いた。
そもそも善は則ち進め、
悪は則ち誅するのが
もとより君の道である。
かつて応仲遠は泰山の太守となった際
ひとりの孝廉を推挙したが
旬月の間にこれを殺している。
そもそも君人たる者
厚薄がどうして恒常的であろうか」
邴原は対して言った。
「仲遠は孝廉を推挙してこれを殺しましたが
その義はどこにございましょう。
そも孝廉とは、国家の俊英として
選ばれた者です。
彼を推挙した事がもし正しいのならば
則ち彼を殺す事は間違っています。
もし彼を殺すのが正しいのならば
則ち彼を推挙した事が間違っています。
詩経の云っている
〝彼の子はその媾(厚)を遂げぬ〟
とは、蓋し、これを誹譏しているのです。
(詩経、国風の曹風の候人)
論語は云っております。
〝これを愛すればその生を欲し、
これを悪めばその死を欲す。
既にその生を欲しながら
またその死を欲するのは、
これこそ、惑乱である〟
(論語、顔淵第十二)
仲遠の惑いは甚だしいものです。
明府はどうして取り上げたのですか」
孔融はかくて大笑いし、言った。
「吾はただ戯れてみたまでじゃ」
邴原はまた言った。
「君子は、その言に関しては
身から出れば民に加えられるもので
言行とは君子の枢機にございます。
どうして人を殺そうとしながら
戯れとしてよいという事がございましょう」
孔融は答えなかった。
当時、漢王朝は陵遅し、
政治は賂によって成り立っていた。
邴原はかくて家人をひきいて鬱洲山の中へ入った。
郡が有道に推挙すると
孔融は書状で邴原を諭して言った。
「性を修めて貞節を保ち、
清らかで謙虚ながら高尚を守り、
危うき邦に立ち入らず、
久しく楽土に潜んでおられる。
王室は多難であり
西は鎬京へと遷った。
聖朝は苦労されつつも謙虚であり
疇昔(先に)儁乂に咨られた。
我がゆきて安定を求むは
策命が懇惻(大変に誠実)であるからだ。
国がまさに隕ちようとしているときには
釐も緯を恤れんではおれず、
家がまさに亡びようとしているときには
緹縈も踏み越え、渉ってくる。
彼女は匹婦ではあるが、なおも
このような義を手にしていた。
実際に根矩(邴原)を望むは
仁を己が任とするからであり
手をさしのべて溺れる者を援け
艱難に於ける民を救うためである。
しかし晏晏として安息に居し
我々を顧慮することが無い、
考えるに君子とは
もとよりかくの如くであるのか。
根矩,根矩よ、来てくれ」
邴原はとうとう(孔融のもとへゆかず)
遼東へと至った。
遼東には虎が多かったが
邴原の村落だけは
虎の憂患がなかった。
邴原は嘗て出行の際に
遺失の銭を得ると、
拾って樹木の枝に繋げておいた。
この銭は取られなかった上に
(樹木に)銭を繋げておく者が
どんどん多くなっていった。
そのわけを問うと、
返答者は、これを神木であると謂っていた。
邴原は自己に由来して
淫祀(木に銭をかけておく事)が
成っている事を疾悪し、
そこでこの事を弁明した。
こうして、里じゅうで
遂にその銭を収歛して
社に提供する事となった。
その後、邴原は郷里へ帰ろうとした際に
三山にとどまった。
孔融は書状で述べた。
「隨会は秦に在り、賈季は翟に在ったが、
諮り仰ぐ所がなく
歎息して思いを募らせていた。
近頃来訪し、近隣の三山におられると知った。
詩経は云っておるではないか、
〝鎬より帰来して、我が行くは永く久しく〟
今、五官掾を遣り
奉じて榜人(船頭)、舟楫の労や
禍福、動静を問わせて
安慰の意を示した。
乱の階はいまだ已まず、
兵をたのんだ豪雄が
棊奕(囲碁の博打?)のように
※梟猛を争っている
(※梟棋という博打もあり、その事かもしれない)」
邴原はここにおいて
遂にはまた引き返した。
十余年が経った後
ようやく(郷里へ)舞い戻り、
南へ行き数日が過ぎてから
公孫度ははじめて気がついた。
公孫度は、邴原に再び追いつく事は
不可能であるとさとると、
そこでこう言った。
「邴君は、所謂雲中の白鶴であり、
鶉鷃の網でとらえる事はできぬ。
また、吾は自ら彼を遣ったのだから
再び求めるような事はせぬ」
とうとう危難を免れた。
国土に帰ってきてから
邴原はこうして礼楽を講述し
詩書を吟詠した。
門徒は数百、道義に帰服する者は数十であった。
(註釈)
「融有所愛一人」は誰なんだろう。
孔融も邴原も「なにがし」って言ってるし、
「兄弟が成就」してるのに
名無しなのは不自然じゃないか。
捏造したキャラだから名前出せないとか。
孔融は可愛がってたなにがしを
打って変わって殺そうとしている。
「恩にそむいた」らしい。
みんなが反対するなか
邴原は黙っている。
なら賛成って事だろうか?
孔融が邴原にたずねると、
邴原、
「孔融さまがなにがしをなぜ愛してるのか
なぜ憎んでるのかわからないから
愚かな私は何を言っていいかわからない」
孔融、
「応仲遠も推挙した孝廉を殺してるぞ、
厚遇と薄遇は常なるものではない」
孫権が後年に
「曹操だって孔融を殺したから
俺が虞翻を殺しても問題あるまい」
などと言い放ったのと理屈は同じだが
まさか自分がこういう形で
引き合いに出される事になるとは
この時の孔融、夢にも思うまい……。
邴原、
「孝廉は国家の俊傑として
選ばれた人材な訳で、
推挙が是なら殺すのは非だし
殺すのが是なら推挙自体非ですよ。
他ならぬ孔子が、それを否定している」
孔融、
「あはは、冗談だよ、冗談」
邴原、
「君子の言行は民に及ぶのですから
冗談でも殺すなどと言ってはだめです」
邴原、孔融が
孔子の子孫なことを踏まえて
論語から引用したり
君子のワードを出してくる。
孔融は言葉に詰まり、
ロジカルノックアウト。
でも誰かをサゲないと
誰かをアゲられないってのも
あんま好きじゃないな。
孔融と邴原はその後、
東と西に分かれるが、
孔融は別れた女房に言うみたいに
「帰ってきてくれ」と告げる。
ここで引用している緹縈は
漢書の刑法志に登場↓
即位十三年,齊太倉令淳于公有罪當刑,詔獄逮繫長安。淳于公無男,有五女,當行會逮,罵其女曰:「生子不生男,緩急非有益也!」其少女緹縈,自傷悲泣,乃隨其父至長安,上書曰:「妾父為吏,齊中皆稱其廉平,今坐法當刑。妾傷夫死者不可復生,刑者不可復屬,雖後欲改過自新,其道亡繇也。妾願沒入為官婢,以贖父刑罪,使得自新。」
漢文帝の即位から十三年、
太倉令の淳于公(淳于意)が獄に繋がれた時、
「男子がいないから何かあった時に損だよなぁ」
と罵られて(淳于意には女子が五人いた)
末娘の緹縈が自らが奴婢となるので
父の罪を贖わせてほしい、と嘆願した。
文帝は彼女の意気に心打たれて
肉刑の執行を取りやめたという。
国のピンチにはヤモメすら
機織りをやめるくらいだし、
年若い娘でさえ家の危難には
駆けつけるのだから
お前も駆けつけてくれよって言いたい。
けど、邴原は来なかった。
孔融が人望ないんじゃなくて
後漢という国家自体がもう
泥舟と見做されているのかなぁ。
遼東には流民が集まる。
慕容廆は永嘉の大乱から
王浚のミスにつけ込む形で
遼東に人材を集めてったように見えるが
似たような事が起きてるのかな。
8巻の公孫度伝もあとでちゃんと読もう。
ある時、邴原が落とし物の銭を拾い
それを木にひっかけておいたら
みんなマネするようになった。
「ご神木だからお金をかけてあるんだ」
という風に広まっていたが、
邴原はこれがイヤだったらしく、
「あれは私が最初にやったんだ、
あの木はご神木じゃない」
と、説明した。
思いがけずも邴原はみんなの手本に
なってしまう、ってのと
事実がねじ曲がって伝わる、
根拠のない噂とかを嫌う
真っ直ぐな人柄,ってのを言いたいのかな。
後年、邴原が郷里へ戻る途上で
また孔融から手紙。
もう邴原的には、孔融とは
とっくに終わった関係だと
思ってそうなものだが。
隨会と賈季は左氏伝の文公十三年に登場↓
夏,六卿相見於諸浮,趙宣子曰,隨會在秦,賈季在狄,難日至矣,若之何,中行桓子曰,請復賈季,能外事,且由舊勳,郤成子曰,賈季亂,且罪大,不如隨會,能賤而有恥,柔而不犯,其知足使也,且無罪,乃使魏壽餘偽以魏叛者,以誘士會,執其帑於晉,使夜逸,請自歸于秦,秦伯許之,履士會之足於朝,秦伯師于河西,魏人在東,壽餘曰,請東人之能與夫二三有司言者,吾與之,先使士會,士會辭曰,晉人虎狼也,若背其言,臣死,妻子為戮,無益於君,不可悔也,秦伯曰,若背其言,所不歸爾帑者,有如河,乃行,繞朝贈之以策,曰子無謂秦無人,吾謀適不用也,既濟,魏人譟而還,秦人歸其帑,其處者為劉氏,
趙宣子
「隨会は秦、賈季は狄におり
禍となっている、どうしましょう」
中行桓子
「賈季は外事に明るい、復帰を要請しよう。
かつての勲功もあるのだから」
郤成子
「乱を起こした賈季の罪は大きなものだぞ。
(復帰させるなら)随会以上はいない。
恥を受けても賤しいと思わず
柔軟で侵犯できぬ、その知力は
使わすに足りよう。その上罪もない…」
ていうか、随会って士会のことか。
士会って言われればわかる。
孔融は、国外にいる脅威の例えとして
士会と賈季を引用したのかな。
賈季が公孫氏で、士会が邴原って事か?




