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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十一、田疇伝
507/603

四、おめぇの出番だぞ惇!

4.

遼東斬送袁尚首,令「三軍敢有哭之者斬」。疇以甞為尚所辟,乃往弔祭。太祖亦不問。疇盡將其家屬及宗人三百餘家居鄴。太祖賜疇車馬穀帛,皆散之宗族知舊。從征荊州還,太祖追念疇功殊美,恨前聽疇之讓,曰:「是成一人之志,而虧王法大制也。」於是乃復以前爵封疇。疇上疏陳誠,以死自誓。太祖不聽,欲引拜之,至于數四,終不受。有司劾疇狷介違道,苟立小節,宜免官加刑。太祖重其事,依違者久之。乃下世子及大臣博議,世子以疇同於子文辭祿,申胥逃賞,宜勿奪以優其節。尚書令荀彧、司隷校尉鍾繇亦以為可聽。太祖猶欲侯之。疇素與夏侯惇善,太祖語惇曰:「且往以情喻之,自從君所言,無告吾意也。」惇就疇宿,如太祖所戒。疇揣知其指,不復發言。惇臨去,乃拊疇背曰:「田君,主意殷勤,曾不能顧乎!」疇荅曰:「是何言之過也!疇,負義逃竄之人耳,蒙恩全活,為幸多矣。豈可賣盧龍之塞,以易賞祿哉?縱國私疇,疇獨不愧於心乎?將軍雅知疇者,猶復如此,若必不得已,請願效死刎首於前。」言未卒,涕泣橫流。惇具荅太祖。太祖喟然知不可屈,乃拜為議郎。年四十六卒。子又早死。文帝踐阼,高疇德義,賜疇從孫續爵關內侯,以奉其嗣。

(訳)

遼東が袁尚の首を斬って送ってくると、


「三軍のうちで、敢えて

これに哭礼を行う者があれば、斬る」


との命が出された。


田疇はかつて袁尚に召辟されており、

かくて弔問と祭祀に向かった。


太祖はまたも不問とした。


田疇はその家属及び宗族の三百余家

盡くを率いてぎょうに居住した。


太祖は田疇に車馬、穀物、きぬを下賜したが

これらをすべて宗族や

旧知の者にばらまいてしまった。


荊州征伐に従軍し、帰還すると、

太祖は田疇の功績が

殊更に素晴らしかった事を追想し、

以前に田疇の謙譲を

聴き入れてしまった事を

悔やんで、こう言った。


「これは、一人の志を成さしめたものの

王法や大いなる制度を損なってしまっている」


こうして、以前の爵位に

再度田疇を封じた。


田疇は上疏して誠心を陳べ、

死を以って自ら誓いをたてた。


有司は、田疇が狷介(狭量で意固地)で

道義を違え、いたずらに

小さな節義にこだわっていると弾劾し、

免官にして刑を加えるべきであるとした。


太祖はその事態を重く見て、

久しく依違いい(曖昧)なる態度を取っていた。


そこで、世子(曹丕)及び大臣に

ひろく議論をさせたところ、

世子は、田疇が

俸禄を辞退した子文しぶん

褒賞から逃れた申包胥しんほうしょ

同様であると考え、

(官位は)剥奪せずにその節義を

優先してやるべきだと考えた。


尚書令の荀彧じゅんいく司隷校尉しれいこうい鍾繇しょうようもまた

聴き入れるべきとの見解を示した。


太祖は猶も彼を侯にしたいと考えていた。


田疇はもとより夏侯惇かこうとんと親善であり、

太祖が夏侯惇に語るには、


「ひとまず往き、

情によって彼を諭してくれ。

君の言う所に従うものとして

吾の意であるとは告げぬように」


夏侯惇は田疇の宿場へおもむくと

太祖が戒めた通りにした。


田疇はその趣意を揣知しちすると

もう発言しなかった。


夏侯惇は立ち去るに臨み、

そこで田疇の背中をでて言った。


「田君、ご主君のご意向は慇懃なものだ。

一切顧みないというわけにはいかぬぞ」


田疇は答えて言った。


「これは何とお言葉の過ぎたることか。


わたしは義にそむいて

逃げかくれた者にすぎません。


御恩をこうむり命を全うできた事は

多幸でございますが、

どうして盧龍ろりゅうの塞を売り

恩賞や俸禄に易えられましょう?


たとえ国家が疇を不公平に扱われても

疇だけは心中慚愧に堪えません。


将軍はもとより疇をご存知ですが

なおもまたこのようになさいます。


もしどうしても已むを得ないのならば

どうか御前にて首を刎ね、

命を捧げさせてくださいませ」


言い終わらぬうちに

涕泣し、(涙を)あふれさせた。


夏侯惇はつぶさに太祖に報告した。

太祖は喟然とし、

屈服させられないとわかると

そこで拝して議郎とした。


四十六歳で卒した。

子もまた早くに亡くなった。


文帝(曹丕)が践祚すると

田疇の徳義を立派なものとみて

田疇の従孫の田続でんぞく

関内侯の爵位を賜わり

その後嗣を奉らせた。


(註釈)

どうしても仕官を肯じない田疇。

罰を与えるべきという意見も出たが

曹操は結論を出せずにいた。


曹丕そうひらに改めて議論をさせると

荀彧じゅんいく鍾繇しょうようともどもに

彼の意思を尊重してやるべきとの意見が出る。


曹操は諦めきれず、

田疇と仲のいい夏侯惇を

説得に向かわせる…

が、ダメっ……!


田疇の意思の固さと

夏侯惇の人脈のすごさを

改めて思い知ることになった。


46歳没。

初平元年(190)に22歳って

書かれてるから、169年生まれの

214年没だと思われ。

もう擁護してた荀彧は死んでて、

荀攸じゅんゆうと没年がいっしょ。


子が夭折していたため

従孫の田続が後を継いだ。

田家の人死にすぎだろって思うけど

疇常忿烏丸昔多賊殺其郡冠蓋

とあるから、烏丸に家族を

大量に殺されちゃったのかも。


ところで田続って、

鄧艾とうがいを殺したあの田続のこと?

意外なところにつながりました。



子文は春秋時代の楚の宰相。

楚のピンチに資材をなげうった。

申包胥しんほうしょは史記の伍子胥ごししょ列伝に出てきました。

彼も楚のために援軍の要請に命懸けたが

恩賞の話はことわっている。

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