二、北の独立勢力
2.
疇得北歸,率舉宗族他附從數百人,埽地而盟曰:「君仇不報,吾不可以立於世!」遂人徐無山中,營深險平敞地而居,躬耕以養父母。百姓歸之,數年閒至五千餘家。疇謂其父老曰:「諸君不以疇不肖,遠來相就。衆成都邑,而莫相統一,恐非久安之道,願推擇其賢長者以為之主。」皆曰:「善。」同僉推疇。疇曰:「今來在此,非苟安而已,將圖大事,復怨雪恥。竊恐未得其志,而輕薄之徒自相侵侮,偷快一時,無深計遠慮。疇有愚計,願與諸君共施之,可乎?」皆曰:「可。」疇乃為約束相殺傷、犯盜、諍訟之法,法重者至死,其次抵罪,二十餘條。又制為婚姻嫁娶之禮,興舉學校講授之業,班行其衆,衆皆便之,至道不拾遺。北邊翕然服其威信,烏丸、鮮卑並各遣譯使致貢遺,疇悉撫納,令不為寇。袁紹數遣使招命,又即授將軍印,因安輯所統,疇皆拒不受。紹死,其子尚又辟焉,疇終不行。
(訳)
田疇は北へ帰還し得ると
宗族やその他の従属者数百人を統率し、
地を掃い(古代の祭祀法らしい)、
盟約をたてて言った。
「主君の仇に報いねば、
吾は当世に立ってはおられぬ!」
遂には徐無山の中へと立ち入り
深く険しい点を処理して
平らかで広い地に居住し、
躬ら農耕をおこなって父母を養った。
これに帰順した百姓は
数年間で五千余家にまで至った。
田疇はその父老に対して言った。
「諸君は疇を不肖とみなさず
遠くから来て付従してくれた。
大勢で都邑を形成したものの
互いに統一はされておらず、
長久的な安定の道にあらぬのでは
ないものかと恐れている。
どうか、その中で
賢明なる長者を択んで
推挙し、その主導者として欲しい」
皆、「善し」と言い、
一同は僉くが田疇を推した。
田疇は言った。
「今、やって来てここに在るのは
苟且の安息のためのみではなく
大事を図り、怨みにむくいて
恥を雪がんがためである。
密かにその志を得られぬ事を恐れているが
軽薄な輩は自ずから侵侮し合って
一時の快楽を愉しみ
深謀遠慮などはない。
疇は愚計を有しており、
どうか諸君と共にこれを実施したいと
考えているのだが、如何かな?」
皆、「いいですよ」と言った。
田疇はかくて殺人、傷害、
侵犯、窃盗、諍訟の法規についての
約束を為し、法に重く背いた者は死刑、
それに次して罪に抵触するものが
二十余條であった。
また、婚姻や嫁を娶る際の礼法を制定し、
学校を興起して学業を受ける事をはからい、
その部衆に頒布、施行させた。
部衆は皆、これを便利なものと考え
道に至っても遺物を拾わなくなった。
北方の辺境は翕然とその威信に服し
烏丸、鮮卑は揃って各々使者や翻訳者を遣わし
貢物や贈り物を至らせた。
田疇は悉くを慰撫して受け入れ、
寇掠をせぬように命じた。
袁紹がたびたび使者を遣わして召喚し
一方で即座に将軍の印綬を授け、
それによって(田疇の)統率する所を
安撫しようとしたが、田疇は
すべて拒んで受けなかった。
袁紹が死ぬと、その子の袁尚が
再度召辟したが、田疇は終ぞ行かなかった。
(註釈)
劉虞を殺しちゃった事で
士大夫の反感を買いまくっている公孫瓚…。
それでも199年くらいまで粘れてたから
易京が頑丈な事をさっ引いても
かなりとんでもない男である。
時に田疇は劉虞の仇を討つため
独自のコミュニティを形成して
半独立勢力みたいになった。
その後、公孫瓚をやっつけた袁紹に
帰順しそうなものだが、受けない。




