一・註一、劉虞の使者
1.
田疇字子泰,右北平無終人也。好讀書、擊劒。初平元年,義兵起,董卓遷帝于長安。幽州牧劉虞歎曰:「賊臣作亂,朝廷播蕩,四海俄然,莫有固志。身備宗室遺老,不得自同於衆。今欲奉使展效臣節,安得不辱命之士乎?」衆議咸曰:「田疇雖年少,多稱其奇。」疇時年二十二矣。虞乃備禮請與相見,大恱之,遂署為從事,具其車騎。將行,疇曰:「今道路阻絕,寇虜縱橫,稱官奉使,為衆所指名。願以私行,期於得達而已。」虞從之。疇乃歸,自選其家客與年少之勇壯慕從者二十騎俱往。虞自出祖而遣之。旣取道,疇乃更上西關,出塞,傍北方,直趣朔方,循閒徑去,遂至長安致命。詔拜騎都尉。疇以為天子方蒙塵未安,不可以荷佩榮寵,固辭不受。朝廷高其義。三府並辟,皆不就。得報,馳還,未至,虞已為公孫瓚所害。疇至,謁祭虞墓,陳發章表,哭泣而去。瓚聞之大怒,購求獲疇,謂曰:「汝何自哭劉虞墓,而不送章報於我也?」疇荅曰:「漢室衰穨,人懷異心,唯劉公不失忠節。章報所言,於將軍未美,恐非所樂聞,故不進也。且將軍方舉大事以求所欲,旣滅無罪之君,又讎守義之臣,誠行此事,則燕、趙之士將皆蹈東海而死耳,豈忍有從將軍者乎!」瓚壯其對,釋不誅也。拘之軍下,禁其故人莫得與通。或說瓚曰:「田疇義士,君弗能禮,而又囚之,恐失衆心。」瓚乃縱遣疇。
(訳)
田疇は字を子泰、
右北平郡無終県の人である。
読書、撃剣を好んだ。
初平元年に義兵が決起すると
董卓は帝を長安に遷した。
幽州牧の劉虞は歎息して言った。
「賊臣が乱を作し、
朝廷は播蕩(流浪)して
四海は突然の出来事に(混乱して)
確固たる意思を有する者はない。
我身は宗室として
旧来よりの老臣に備えられており
衆人と同様である訳にはゆかぬ。
今、使者を奉じて
臣下の節義を尽くしたいと
考えておるのだが、
どうやって命を辱めぬ士を
得ればよいだろうか?」
衆議は咸言った。
「田疇は年若いと雖も
多くの者がその非凡さを称えております」
田疇は時に二十二歳であった。
劉虞がかくて礼を備えて
会見を要請すると
大いにこれに悦んで
遂には署して従事とし、
その車騎を具えた。
行こうとした際、田疇は言った。
「今、道路は断たれて
寇虜が縦横しており、
官を称して使者を奉れば
衆人に指名される(標的にされる)
所であります。
どうか私を行かせる
(私的な旅行とする?)ことで
(目的を)達成し得る事のみを
期させてください」
劉虞はこれに従った。
田疇はかくて帰ると、
その家の客分と、
年少者のうちで勇壮であり
追従を乞い願う者を自ら選んで、
二十騎と倶にむかった。
劉虞は自ら送別に出て
彼を派遣した。
道を選び取ったあと
田疇はかくて更に西関へ上って
塞を出で、北方にしたがい、
真っ直ぐ朔方へと赴き、
間道にそって通過して
遂に長安へ至って使命を果たした。
詔によって騎都尉に拝された。
田疇は、天子がまさに
蒙塵して落ち着けずにいる事から
栄誉、恩寵を拝承する事はできないとして、
固辞して受けなかった。
朝廷は彼の節義を立派なものとみなした。
三府が揃って召辟するも
すべて就任しなかった。
報せを得て馳せ帰り、
いまだ至らぬうちに
劉虞は已に公孫瓚に
殺害されてしまっていた。
田疇は到着すると、
劉虞の墓に拝謁して祭祀をおこない、
※章報(朝廷からの返事)を
開封して読み上げると
哭泣して立ち去っていった。
(※原文は章表だが、直後の公孫瓚のセリフから見て章報が正しいと思われる)
公孫瓚はこれを聞いて大いに怒り、
賞金を懸けて田疇を捕獲すると
こう謂った。
「汝はどうして自ら
劉虞の墓で哭泣したうえ
章報を我に送らなかったのだ?」
田疇は答えて言った。
「漢室は衰微し、人々は異心を懐いておりますが
ただ劉公のみが忠節を
失っておりませんでした。
章報の述べる所については
将軍をめでてはおらず、
恐らくは快く聞けるものでは
ないと考えたために
進上いたさなかったのでございます。
さらに、将軍はまさに
大事を挙げられる事で
欲する所を求めておられますが、
罪なき主君を滅ぼした上、
一方で節義を守る臣下に
讎を為しておられます。
実際にこのような事を行ったなら、
則ち、燕・趙の将士はみな
東海を乗り越えて死のうとするのみで
どうして忍んで
将軍に従う者がありましょうか」
公孫瓚はその受け答えを
雄壮なものであると見なし、
釈放して誅殺する事はなかったが、
彼を軍の管理下に拘束し、
その旧知の者に、彼と
(連絡を)通ずる事を禁止した。
或る者が公孫瓚に説くには、
「田疇は義士でありますが
貴君は礼遇する事ができておらず、
一方で彼を幽閉してしまっています。
人々の心を失う恐れがあります」
公孫瓚はそこで
田疇を自由にさせてやった。
註1.
先賢行狀曰:疇將行,引虞密與議。疇因說虞曰:「今帝主幼弱,姧臣擅命,表上須報,懼失事機。且公孫瓚阻兵安忍,不早圖之,必有後悔。」虞不聽。
(訳)
先賢行状にいう、
田疇は行こうとした際に
劉虞を引見して密議した。
田疇がそこで劉虞に説くには、
「今、帝主はご幼弱であらせられ
奸臣が命をほしいままにしており、
上奏して返報を待たれるのでは
恐らく時機を逸してしまいます。
さらに、公孫瓚は※阻兵安忍で
(※兵力をたのみ、残忍な事をするさま。
左伝の隠公四年に同様の記述がみられる)
早くに彼を図らねば
必ずや後になって悔やむ事になりますぞ」
劉虞は聞き入れなかった。
(註釈)
幽州右北平郡の人。
程普の時に触れたけど
幽州の中ではやや過疎ぎみの所。
撃剣と読書が好き。
前者は荊軻、魯粛、徐庶なんかも好んでいた。
投げナイフ的なワザ。
光武帝の子孫である
幽州牧の劉虞に仕えた。
董卓が献帝を担いだとき、袁紹と韓馥は
この劉虞を皇帝として擁立しようとしたが
当の彼が首を縦に振らなかったようだ。
時に劉虞は長安へ追いやられた天子に
使者を送ろうとしていたが、適任がいない。
そこで周囲が推薦したのが田疇であった。
任務を果たして帰途に就いた田疇だったが
その間に劉虞は公孫瓚と争い、
敗死してしまっていた。
この劉虞、演義だと
第二回にほんのちょっと出る程度で
第一回に登場する幽州牧は
劉焉に差し替えられている。
臧洪もそうだけど、
主役の劉備の仁者っぷりが
薄れそうだから、意図して
出番削られてるんじゃないのかな。
劉虞をちゃんと書くとなると
学友の公孫瓚の悪行も
描写せにゃいけなくなるからね。
劉虞は三国志に列伝はないものの
後漢書にはあります。
いずれ触れるでしょう。




