六・註五・註六、宗族子弟
6.
初,渙從弟霸,公恪有功幹,魏初為大司農,及同郡何夔並知名於時。而霸子亮,夔子曾,與侃復齊聲友善。亮貞固有學行,疾何晏、鄧颺等,著論以譏切之,位至河南尹、尚書。霸弟徽,以儒素稱。遭天下亂,避難交州。司徒辟,不至。徽弟敏,有武藝而好水功,官至河隄謁者。
(訳)
当初、袁渙の従弟の袁覇は
公平で謹み深く、功幹(才幹)を有しており、
魏の初期に大司農となって
同郡の何夔と並んで
当代に名を知られた。
袁覇の子の袁亮、何夔の子の何曾は
袁侃と名声を等しくした上で
友人として親善でもあった。
袁亮は貞固(節を守り心が移ろわぬこと)で
学業、品行を有しており、
何晏、鄧颺らを疾悪して
論述を著す事によって
彼らを痛切に誹譏した。
位は河南尹、尚書まで至った。
袁覇の弟の袁徽は
儒学によってもとより称えらていた。
天下が擾乱に遭遇すると
交州に避難した。
司徒として召辟されるも、
赴かなかった。
袁徽の弟の袁敏は
武芸を有していて
水利の事に長けていた。
官職は河隄謁者まで至った。
註5.
晉諸公贊曰:亮子粲,字儀祖,文學博識,累為儒官,至尚書。
(訳)
晋諸公賛にいう、
袁亮の子は袁粲、字を儀祖。
文学に長けて博識で
累進して儒官となり
尚書まで至った。
註6.
袁宏漢紀曰:初,天下將亂,渙慨然歎曰:「漢室陵遲,亂無日矣。苟天下擾攘,逃將安之?若天未喪道,民以義存,唯彊而有禮,可以庇身乎!」徽曰:「古人有言:『知機其神乎』!見機而作,君子所以元吉也。天理盛衰,漢其亡矣!夫有大功必有大事,此又君子之所深識,退藏於密者也。且兵革旣興,外患必衆,徽將遠迹山海,以求免身。」及亂作,各行其志。
(訳)
袁宏の漢紀にいう、
当初、天下がまさに
乱れようとしていた際に
袁渙は慨然と歎息して述べた。
「漢室は陵遅(衰微)し
動乱まで日が無い。
苟且に天下が擾乱さば
逃亡したとて
何処へ之こうというのか。
もし天が道を喪わせなければ
民は義を以って生き延びる。
ただ強かであれども礼を持ったなら
身を庇う事ができようか」
袁徽は言った。
「古人の言葉にあります、
『機会を察知する、それは神であろうか』と。
機を見て行動を起こす事こそ
君子の大吉とする所ございます。
天の理とは盛えたり衰えたり
するもので、漢の時代は
終わろうとしております。
そも大功あらば必ず大事があるもので、
これもまた君子の
深く知る所であり、
密かに包み隠しておくものです。
かつ、兵革が起こった上は
外患は間違いなく多くなります。
徽は、山海に遠迹(隠居)する事で
身の安全をはかります」
乱が起きるに及んで
各々その志により行動した。
(註釈)
何晏や鄧颺は
曹爽の腰巾着たち。
晋書で司馬懿に触れた時
後半部で存在感出してた。
何晏はあの何進の孫でもあり、
曹操から養子として迎えられたが
曹丕にスゲー嫌われてたという。
袁渙らと同じく陳郡出身の何夔は
魏書の12巻に列伝が立てられている。
そのうち触れるでしょう。
袁徽は呉書の士燮伝で
荀彧に手紙を送ってた人。
董卓の時期は黄琬や王允が
司徒のはずだから
袁徽を司徒として召辟したのは李傕か?
袁紹や袁術の心証もよくなりそうだし。
荀彧が曹操に進言した可能性もある。
荀彧に手紙を出したのはたぶん
196年前後とあちらで考察しました。
註6は「退藏於密者也」の意味が
うまくとれなかった。
乱世を生き抜くための
機微を見抜く目があったって話。
袁渙評
・戦闘 ★★★★ 4
・戦略 ★★★★★★ 6
・内政 ★★★★★★★ 7
・人格 ★★★★★★ 6
特に何したの、ってのはなかったけど
三回勢力を鞍替えして
魏書に列伝立てられてるのはすごい。
曹操が相手だったとしても
正論で捲し立ててくるぐらいなので
相談相手には向かなそう。
次は張範伝。




