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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第十、丁奉伝
488/603

三・四、毌丘倹、文欽、諸葛誕の乱

3.

魏將文欽來降,以奉爲虎威將軍,從孫峻至壽春迎之,與敵追軍戰於高亭。奉跨馬持矛,突入其陣中,斬首數百,獲其軍器。進封安豐侯。

(訳)

魏将の文欽ぶんきんが来降すると

丁奉は虎威将軍となった。

孫峻に従って寿春へ向かい、彼を迎えて

敵の追手の軍と高亭こうていにて戦った。


丁奉は馬に跨って矛を持ち

その陣中に突入して

数百を斬首し、その軍器を獲得した。


昇進して安豊あんほう侯に封じられた。


4.

太平二年,魏大將軍諸葛誕據壽春來降,魏人圍之。遣朱異、唐咨等往救,復使奉與黎斐解圍。奉爲先登,屯於黎漿,力戰有功,拜左將軍。

(訳)

太平二年(257)、

魏の大将軍である諸葛誕しょかつたん

寿春に據って来降しようとし、

魏の者は(させまいとして)

これを包囲した。


朱異しゅい唐咨とうしらを救援に向かわせ

再び丁奉と黎斐れいひに囲みを解かせた。


丁奉は先んじて登ると

黎漿に駐屯し、力戦して功をあげ、

左将軍に拝された。


(註釈)

資治通鑑の76巻を参考に

三国のいきさつを纏めます。


諸葛恪亡き後の呉は

皇族の孫峻そんしゅんが権力を握る。


諸葛恪の姪が

もと皇太子の孫和そんかの妃だったために

孫和も自殺を命じられた。

孫和の子が、呉のラストエンペラー

孫皓そんこうである。


蜀では費禕ひいが魏の降将に刺し殺され

姜維きょういが北伐を始める。

臨洮の戦で張嶷ちょうぎょくが戦死した。


魏は司馬懿しばい亡きあと

子の司馬師しばしが実権を握っており、

254年にクーデターを企てたかどで

夏侯玄かこうげん李豊りほうが殺され

曹芳そうほうが皇帝から降ろされる。

我が身を危ぶんだ夏侯覇かこうはが蜀に亡命。

羊祜ようこは身内から反逆者が出たため

周りから白い目で見られるようになってしまった。


255年の正月に毌丘倹かんきゅうけん文欽ぶんきん

司馬師に対して寿春で反乱を起こすが

毌丘倹は敗れて殺された。


孫峻は呂拠りょきょ留賛りゅうさんを率いて

寿春を襲撃しようとしたが

諸葛誕しょかつたんが先に寿春をおさえており

撤退を余儀なくされた。


文欽が呉へ投降を願い出、

丁奉はこの時に働いた模様。


同年内に、司馬師は

目の病気が悪化して

目玉が飛び出してしまい、死んだ。


257年、司馬昭しばしょうの代になると

今度は諸葛誕が反乱を起こすがこれも失敗。


王凌は司馬懿、

毌丘倹と文欽は司馬師、

諸葛誕と曹髦は司馬昭に対し

それぞれ反旗を翻したが

全員失敗している。


晋書で司馬師と司馬昭に

触れた際に、もっと詳しくやります。

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