一・二、疾風怒濤の突撃
1.
丁奉字承淵,廬江安豐人也。少以驍勇爲小將,屬甘寧、陸遜、潘璋等。數隨征伐,戰鬬常冠軍。每斬將搴旗,身被創夷。稍遷偏將軍。孫亮即位,爲冠軍將軍,封都亭侯。
(訳)
丁奉は字を承淵、廬江郡安豊県の人である。
少い頃に驍勇を以て少将となり
甘寧、陸遜、潘璋らに所属した。
しばしば征伐に従い、
戦闘では常に軍の先頭であった。
将を斬り、旗を奪い取るたび
その身に創痍を被っていた。
稍稍に(昇進して)偏将軍に遷った。
孫亮が即位すると
冠軍将軍となり、都亭侯に封じられた。
2.
魏遣諸葛誕、胡遵等攻東興,諸葛恪率軍拒之。諸將皆曰:「敵聞太傅自來,上岸必遁走。」奉獨曰:「不然。彼動其境內,悉許、洛兵大舉而來,必有成規,豈虛還哉?無恃敵之不至,恃吾有以勝之。」及恪上岸,奉與將軍唐咨、呂據、留贊等,俱從山西上。奉曰:「今諸軍行遲,若敵據便地,則難與爭鋒矣。」乃辟諸軍使下道,帥麾下三千人徑進。時北風,奉舉帆二日至,遂據徐塘。天寒雪,敵諸將置酒高會,奉見其前部兵少,相謂曰:「取封侯爵賞,正在今日!」乃使兵解鎧著冑,持短兵。敵人從而笑焉,不爲設備。奉縱兵斫之,大破敵前屯。會據等至,魏軍遂潰。遷滅寇將軍,進封都鄉侯。
(訳)
魏が諸葛誕、胡遵らに
東興を攻めさせると、
諸葛恪は軍を率いてこれを拒いだ。
諸将はみな言った。
「敵は太傅(諸葛恪)がおん自ら
やって来たと聞けば、岸に上って
必ずや遁走するでしょう」
丁奉は獨り言った。
「そうではありません。
彼方はその境域中から動員し、
許都、洛陽の兵悉くを
大挙させてやって来たのですから
必ずや前もって定めていた
計略があるのでしょう。
どうして虚しく
引き返したりしましょう。
敵の至らぬ事を恃みとせず
吾々《われわれ》がこれに勝つ
(力がある事)を恃みとするのです」
諸葛恪が岸を上るに及んで
丁奉は将軍の唐咨、呂拠、留賛らと倶に
山に従って西へと遡上した。
丁奉は言った。
「今、諸軍の進行は遅れている、
もし敵が便利な地を占拠してしまえば
則ち、ともに鋒を争うのは困難になろうぞ」
そこで諸軍をまねいて(避けて?)
道を下らせ、麾下の三千人を率いて
真っ直ぐ突き進んだ。
この時、北風が吹いており
丁奉は帆を挙げて二日で到着すると
かくて徐塘に據った。
天候は寒く、雪が降っており、
敵の諸将は酒を飲んで
盛大な宴会を催していた。
丁奉はその前部の兵が少ないと見て
(麾下の兵に)向かって言った。
「封侯爵賞を取るは、正に今日にあり!」
かくて兵に鎧を脱がせて
冑を着けさせると
短兵(リーチの短い武器)を持たせた。
敵人は欲しいままに笑って
備えを設けておらず、
丁奉は兵を放縦してこれを斫らせ
敵前方の駐屯地を大破した。
ちょうど呂拠らも至って
魏軍は遂に潰滅した。
滅寇将軍に遷り、
昇進して都郷侯に封じられた。
(註釈)
今までは孫策・孫権期の武将でしたが
(そもそも孫権期が長すぎる)
丁奉は孫亮・孫休の代の
活躍がメインになります。
丁奉は小隊長のポジで
甘寧、潘璋、陸遜の部隊に所属して
戦功をあげてきた
孫呉最後のたたき上げの軍人。
ことに甘寧と潘璋の部隊って
チンピラっぽい雰囲気がある。
三國志1では武力が22しかなかった。
孫権の死後、後を継いだのは
七男の孫亮、わずか10歳。
魏の司馬師は諸葛誕らに
呉攻めを命じるが、
丁奉の活躍でこれを粉砕。
魏を大破した事で
諸葛恪が気を良くしてしまい
翌年に再度合肥新城を攻めるが
疫病が蔓延したため
殆ど戦果をあげられずに撤退、
宗族の孫峻に謀殺されてしまう。
また、民間伝承では
石を投げるのが得意だったらしい。
水滸伝の没羽箭こと
張清みたいな感じかな。




