二・三、息子の方が扱い大きい
2.
子脩有武風,年十九,權召見獎厲,拜別部司馬,授兵五百人。時諸新兵多有逃叛,而脩撫循得意,不失一人。權奇之,拜爲校尉。建安末,追錄功臣後,封脩都亭侯,爲解煩督。黃龍元年卒。
(訳)
子の陳修は陳武の風格を有しており
年齢は十九であったが、
孫権は引見して奨励し、
別部司馬に拝して兵五百人を授けた。
時に諸々の新兵は
多くが逃げ出すか叛くかであったが
陳修は慰撫、巡回してその意を得たために
一人も失う事がなかった。
孫権はこれを非凡なものとみて
拝して校尉とした。
建安年間の末期(〜220)、
功臣の後裔を追録し
陳修は都亭侯に封じられ
解煩の督になった。
黄竜元年(229)に卒した。
(註釈)
また「解煩」がでてきた。
夷陵の時に胡綜と徐詳が率い
その後の丹楊討伐で韓当が指揮して
韓当の死後は陳修が都督した?
血縁に依らずに継承された戦闘集団。
陳修も恐らく若くして亡くなっている。
3.
弟表,字文奧,武庶子也,少知名,與諸葛恪、顧譚、張休等並侍東宮,皆共親友。尚書曁豔亦與表善,後豔遇罪,時人咸自營護,信厚言薄,表獨不然,士以此重之。徙太子中庶子,拜翼正都尉。兄脩亡後,表母不肯事脩母,表謂其母曰:「兄不幸早亡,表統家事,當奉嫡母。母若能爲表屈情,承順嫡母者,是至願也;若母不能,直當出別居耳。」表於大義公正如此。由是二母感寤雍穆。表以父死敵場,求用爲將,領兵五百人。表欲得戰士之力,傾意接待,士皆愛附,樂爲用命。時有盜官物者,疑無難士施明。明素壯悍,收考極毒,惟死無辭,廷尉以聞。權以表能得健兒之心,詔以明付表,使自以意求其情實。表便破械沐浴,易其衣服,厚設酒食,歡以誘之。明乃首服,具列支黨。表以狀聞。權奇之,欲全其名,特爲赦明,誅戮其黨。遷表爲無難右部督,封都亭侯,以繼舊爵。表皆陳讓,乞以傳脩子延,權不許。嘉禾三年,諸葛恪領丹楊太守,討平山越,以表領新安都尉,與恪參勢。初,表所受賜復人得二百家,在會稽新安縣。表簡視其人,皆堪好兵,乃上疏陳讓,乞以還官,充足精銳。詔曰:「先將軍有功於國,國家以此報之,卿何得辭焉?」表乃稱曰:「今除國賊,報父之仇,以人爲本。空枉此勁銳以爲僮僕,非表志也。」皆輒料取以充部伍。所在以聞,權甚嘉之。下郡縣,料正戶羸民以補其處。表在官三年,廣開降納,得兵萬餘人。事捷當出,會鄱陽民吳遽等爲亂,攻沒城郭,屬縣搖動,表便越界赴討,遽以破敗,遂降。陸遜拜表偏將軍,進封都鄉侯,北屯章阬。年三十四卒。家財盡於養士,死之日,妻子露立,太子登爲起屋宅。子敖年十七,拜別部司馬,授兵四百人。敖卒,脩子延復爲司馬代敖。延弟永,將軍,封侯。始施明感表,自變行爲善,遂成健將,致位將軍。
(訳)
弟の陳表は字を文奥といい、
陳武の庶子である。
少くして名を知られ
諸葛恪、顧譚、張休らとともに
揃って東宮(孫登)に侍立し
みな、共に親友であった。
尚書の曁豔もまた陳表と親善であり、
後に曁豔が罪を遇った際に
当時の人は咸自己保身にはしり、
信頼厚き者すら言辞は
薄情なものであったが、
陳表だけが違っていたため
士はこれによって彼を重んじた。
太子中庶子にうつり、
翼正都尉に拝された。
兄の陳修が亡くなった後
陳表の母は陳修の母に
事えることを肯じなかったが、
陳表は母に向かって言った。
「兄は不幸にも夭折され
表が家業を統べる事になりましたが
嫡母は奉るべきでしょう。
母上がもし表のために
能く意を曲げられて
嫡母に従順でいてくださったなら、
これこそたっての願いです。
もし母上が出来ないと仰るならば
直ぐに出ていって別居すべきです」
陳表が大義に於いて
公正である様は
かくの如くであった。
これに由り、二人の母は
感悟して※雍穆した。
(※和らぎ親しむこと)
陳表は、父が敵地で死んだ事から
将としての起用を求め、
兵五百人を統領した。
陳表は戦士の助力を得ようと
意を傾けて接待したので、
士は皆親愛してなつき、
用命を為すことを楽しんだ。
時に官物を盗む者がおり、
「無難」の士である施明が疑われた。
施明はもとより雄壮、剽悍であり
収監され、極めてはげしい拷問を受けたが
死んでも吐かないといった様子で、
廷尉がこの事を上聞した。
孫権は、陳表が能く
健児の心を得ている事から
詔によって陳表を施明に付けて
自らの意思を以て
その情実を追求させた。
陳表はすぐに枷を破壊して
沐浴させ、その衣服を易えてやり、
厚く酒食を設え、
歓待によってこれ(自白)を誘った。
施明はかくて首服(自供)し
具に支党を列挙したので
陳表は次第を上聞した。
孫権はこれを非凡なものとみて
その名声を全うさせたいと考え、
特別に施明のことは赦して
その支党を誅戮した。
陳表は遷りて無難右部督となり、
都亭侯に封じられて
もとの爵位を継承した。
陳表はすべて辞譲を陳べ
陳修の子の陳延に
伝えるように乞うたが、
孫権は許さなかった。
嘉禾三年(234)に
諸葛恪が丹楊太守を兼領し
山越を討平した際、
陳表に新安都尉を兼領させ
諸葛恪とともに参戦させた。
当初、陳表の受け賜った
復人(免税された人)二百家は
会稽郡の新安県にあった。
陳表がその人々を簡視(調査)した所
皆、良兵として堪えられる者たちで
あったので、そこで上疏して辞譲を陳べ
官を奉還して精鋭を充足する事を請うた。
詔にいわく、
「先に将軍には国家に於ける功績が有り
国家はこれを以て功績に報いたのである、
卿がどうして辞退できようか」
陳表はそこでこう称えた。
「今、国賊を除いて父の仇に報いるには
人間が根本となります。
この勁き精鋭を空しくも枉げて
家僮や下僕にしておきますことは
表の志にございませぬ」
全員をその都度選び取って
部伍を充足した。
所在でこの事が上聞されると
孫権は甚だこれを嘉した。
郡県に下知して
正式な戸籍をもつ羸民を科り
その地(会稽新安の欠員)を補填した。
陳表は在官三年で
広くに(門戸を)開いて
降伏者を受け入れ
兵一万余人を得ていた。
勝利をおさめて出向しようとした折に
鄱陽の民の呉遽らが乱を為し、
城郭を攻め落としたため、属県は動揺した。
陳表はすぐに界域を越えて討伐に赴き、
呉遽は破られて遂に降伏した。
陸遜は陳表を偏将軍に拝し、
昇進して都郷侯に封じられ、
北の章阬に駐屯した。
三十四歳で卒した。
家財は士卒の養成に尽くしていたため
死した日に妻子は住む所を失ってしまい、
太子の孫登が家宅を建てた。
子の陳敖は年十七であり
別部司馬に拝されて兵四百人を授かった。
陳敖が卒すると、
陳修の子の陳延が再び司馬となって
陳敖に代わった。
陳延の弟の陳永は
将軍となり、侯に封じられた。
施明は陳表に感化されて
自ら行いを変じて善を為すようになり
遂には健将に成り上がって
将軍の地位までいたった。
(註釈)
陳武より陳表の方が記述が多い。
太子孫登の四友の一人として
諸葛恪らとともに将来を嘱望されたようだ。
人事係の曁豔と仲がいい。
彼は対応が容赦なさすぎて
自殺に追い込まれた。
しばらく後に孫権は呂壱を信任して
似たような事件を起こす。
是儀伝、潘濬伝にて後述。
今度は「無難」という組織が出てきたが
敢死や解煩のようなコマンド部隊なのかな。
孫亮が孫綝を討伐しようとした時に
この無難兵を率いていたもよう。
敢死や解煩に比べると
出てくるの遅いし、
太子四友の陳表が
無難兵の尋問に当たってるから、
孫権が即位したあとで
皇太子の護衛のために
組織した部隊なのかも。
陳表評価
・戦闘 ★★★★★★ 6
・戦略 ★★★★★ 5
・内政 ★★★★★★ 6
・人格 ★★★★★★ 6
このまま最後までやっちゃいます。
次は董襲伝。




