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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第十、蒋欽伝
465/603

一、当初は小間使い?

1.

蔣欽字公弈,九江壽春人也。孫策之襲袁術,欽隨從給事。及策東渡,拜別部司馬,授兵。與策周旋,平定三郡,又從定豫章。調授葛陽尉,歷三縣長,討平盜賊,遷西部都尉。會稽冶賊呂合、秦狼等爲亂,欽將兵討擊,遂禽合、狼,五縣平定,徙討越中郎將,以涇拘、昭陽爲奉邑。賀齊討黝賊,欽督萬兵,與齊并力,黝賊平定。從征合肥,魏將張遼襲權於津北,欽力戰有功,遷盪寇將軍,領濡須督。後召還都,拜津右護軍,典領辭訟。

(訳)

蒋欽しょうきんは字を公弈こうえき九江きゅうこう寿春(じゅしゅん)県の人である。


孫策が袁術をたよると

蒋欽は給事として随従した。


孫策が東へに渡るに及んで

別部司馬に拝され、兵を授かった。


孫策とともに周旋し、

三郡を平定して

また豫章よしょう平定に従った。


職位が変更され、葛陽かつようの尉を授かり

三県の長を歴任して、盗賊を討平した。

西部せいぶ都尉に遷った。


会稽郡()県(東冶県?)の賊である

呂合りょごう秦狼しんろうらが乱を起こすと

蒋欽は兵を率いて討伐、攻撃し

遂には呂合、秦狼をとりこにして

五つの県を平定した。

討越とうえつ中郎将ちゅうろうしょうに遷り、

涇拘、昭陽しょうゆうを食邑とした。


賀斉がせいが黝(黟)の賊を討つと、

蒋欽は一万の兵を監督し

賀斉と力をあわせて黝賊を平定した。


合肥の征伐に従軍し、

魏将の張遼ちょうりょうが津北で孫権を襲撃した際に

蒋欽は力戦して功をあげ

盪寇とうこう将軍に遷り、濡須督じゅしゅとくを兼領した。


後に都へ召還されて

津右護軍しんゆうごぐんに拝され

訴訟の事を典領した。


(註釈)

ここからは孫策期以降に

傘下に加わった武将になるので

揚州出身者ばかりになる。


蒋欽、もとは孫策の小間使い。

劉繇りゅうようとの戦で武官としてのキャリアを

スタートさせた。


孫策之襲袁術の「襲」は

この場合「入る」とか「因る」かな。

袁術を襲撃したとかじゃなくて

袁術の傘下に入ったって文脈だと思う。


〝調授葛陽尉〟の「調」は

職務を変更する、という意味があるので、

もとは雑用係だったのを強調するのと

戦闘から内政の業務メインに移行した

という事を言いたいのかな。

韓当みたいに戦闘オンリーって

感じではなく、政戦両面につよい。


「江表伝」では、孫権が

呂蒙りょもうと蒋欽に勉強を勧める逸話があるが

そこまで無学なようには見受けられない。

江表伝を書いてる虞溥ぐふ自体が

強く学業奨励してたから、孫権に

持論を代弁させているかのように見える。


会稽の賊の呂合りょごう秦狼しんろう

呂岱りょたい伝にも記述がある。

詳しい時期はわからないけど

既に孫策から孫権に

バトンタッチした後の出来事。

呂岱と蒋欽で討伐した。


賀斉がせいが黟賊を討つのは208年。

戦闘の経緯がやたら詳細な戦で、

賀斉(と蒋欽)は7000を斬首する戦果を出す。


赤壁、南郡、皖城の戦いなどは描写されず、

215年の合肥の戦いは張遼ちょうりょう無双。

劣勢の中奮戦して蒋欽は盪寇とうこう将軍になる。


盪寇将軍は程普ていふだった筈だから

合肥の戦の頃に彼はやはり死んでるか

引退済みなんだと思われる。


合肥の後は、都(武昌?)にて

訴訟の事を取り仕切る。

張遼に刺されてケガでもしたのかな。

孫権が称帝した後(?)は

訴訟関連は是儀しぎが担当した。


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