三・註一、赤壁での災難
3.
蓋姿貌嚴毅,善於養衆,每所征討,士卒皆爭爲先。建安中,隨周瑜拒曹公於赤壁,建策火攻,語在瑜傳。拜武鋒中郎將。武陵蠻夷反亂,攻守城邑,乃以蓋領太守。時郡兵才五百人,自以不敵,因開城門,賊半入,乃擊之,斬首數百,餘皆奔走,盡歸邑落。誅討魁帥,附從者赦之。自春訖夏,寇亂盡平,諸幽邃巴、醴、由、誕邑侯君長,皆改操易節,奉禮請見,郡境遂清。後長沙益陽縣爲山賊所攻,蓋又平討。加偏將軍,病卒于官。
(訳)
黄蓋の容貌は厳毅で
衆の養成に長けており、
毎度征討する所で
士卒は皆先を争った。
建安年間(ここでは208)に
周瑜に随って曹公を赤壁に拒ぎ、
火攻めの策をたてたことが
周瑜伝にて語られている。
武鋒中郎将に拝された。
武陵の蛮夷が反乱すると
城邑を攻め守り、かくて
黄蓋が(武陵)太守を兼領した。
時に郡の兵はわずか五百人であり、
自ら敵わないとさとると
そこで城門を開き、
賊の半分が侵入したところで
はじめてこれを撃って
数百の首級をあげた。
余勢は皆奔走して
村落の盡くが帰服した。
魁帥(親玉)を討伐、誅滅して
服従する者は赦免した。
春から夏の終わりまで
賊による反乱を悉く平定し
幽遠の巴、醴、由、誕といった地の
邑侯や君長は、みな節操を改易し、
礼を奉じて謁見を請うてきたので
郡の境域は遂に清められた。
後に長沙の益陽県が山賊に攻撃されると
黄蓋がまた平定、征討した。
偏将軍を加えられたが、
病で在官のまま卒した。
註2.
吳書曰:赤壁之役,蓋爲流矢所中,時寒墮水,爲吳軍人所得,不知其蓋也,置廁牀中。蓋自彊以一聲呼韓當,當聞之,曰:「此公覆聲也。」向之垂涕,解易其衣,遂以得生。
(訳)
呉書にいう、
赤壁の戦役で黄蓋は流れ矢に中り
寒冷の時期に水に堕ちてしまった。
呉軍の者に救出されたが
それが黄蓋だとはわからず、
廁牀(トイレの中の座るとこ?)の中に置かれた。
黄蓋は強い一声によって韓当を呼び、
これを聞いた韓当は、
「これは公覆の声だ」と言い、
彼のもとに向かい、涙を流して
その衣を脱がせて着替えさせた。
かくて、生き延びられたのであった。
(註釈)
赤壁の戦いでは、他ならぬ黄蓋が
火攻めを懸案したのだという。
呉書のエピソードは、
赤壁の戦役で流れ矢くらって
寒中水泳してたとこを助けられ
黄蓋だと気付かれずに
「廁牀」に放置されたというもの。
廁一文字だけだったら
トイレでいいと思うけど
牀がくっついてて、違う意味にも見える
廁の意味↓
①身を置く、間に混ざる
②トイレ
③側
④間、次
⑤牀の辺側
⑥水の流れる高岸
⑥だと黄蓋が死んでしまう
①a.黄蓋は牀に置かれた
①b.黄蓋は牀に(他の怪我人に混ざって?)置かれた
②.黄蓋はトイレの座るとこに置かれた
③⑤.黄蓋は牀のそばに置かれた
④a.黄蓋は牀のはざまに置かれた?
④b.黄蓋は牀に宿るよう放置された?
牀は、
①床
②ベッド
③底
④井戸の上の柵
⑤腰掛けるところ
なので、黄蓋は
怪我人用(??)のベッドの側まで
連れてってもらった、という
意味になる可能性があります。
「トイレの底」だったらやだな。
赤壁のあと、
周瑜、程普、呂蒙、甘寧、凌統らが
南郡で曹仁と戦う。
劉備は、劉表の子の劉琦を
荊州牧に据えて、荊南の四郡をうつ。
孫権は208年末と翌年春に
合肥を攻めるが、抜けない。
張紘の諌めで撤退する。
209年7月、曹操は合肥に布陣して
芍陂に屯田を開く。
12月に譙へ帰還。
209年末、激闘の末に
周瑜が曹仁を敗走させる。
孫権は周瑜を南郡太守として江陵に
程普を江夏太守として沙羡におく。
劉備が上奏して
孫権を車騎将軍、徐州牧に。
劉表の子の劉琦が亡くなったため
孫権が劉備を領荊州牧とし、
周瑜にその配給を任せる。
周瑜は劉備を警戒しており
彼に領地を与えない。
蜀攻めを懸案する周瑜だったが
曹仁との戦いでかなりムリしたのか
その準備に取り掛かるうち
病にかかって亡くなった。
黄蓋はその頃
武陵の不服住民や蛮族と戦っていた。
甘寧もひどかったけど
黄蓋も500しか兵がいない。
孫呉の苦しい台所事情を
垣間見た気がする。
「武陵蛮夷」ってのは
武陵蛮のことかな。
後漢書来歙伝で少し触れました。
馬良伝でまた触れると思います。




