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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第十、黄蓋伝
459/603

一・註一、零陵の黄氏

1.

黃蓋字公覆,零陵泉陵人也。初爲郡吏,察孝廉,辟公府。孫堅舉義兵,蓋從之。堅南破山賊,北走董卓,拜蓋別部司馬。堅薨,蓋隨策及權,擐甲周旋,蹈刃屠城。


(訳)

黄蓋こうがいは字を公覆こうふく零陵れいりょう泉陵(せんりょう)県の人である。

初め郡の吏となり、孝廉に察挙されて

公府に召辟された。


孫堅が義兵を挙げると

黄蓋はこれに従った。


孫堅は南方に山賊を破り

北方に董卓とうたくを敗走させると

黄蓋を別部司馬べつぶしばに拝した。


孫堅が薨じると

黄蓋は孫策そんさく及び孫権そんけんに従い、

よろいを纏って周旋し

刃を踏み越えて城を屠った。


註1.

吳書曰:故南陽太守黃子廉之後也,枝葉分離,自祖遷于零陵,遂家焉。蓋少孤,嬰丁凶難,辛苦備甞,然有壯志,雖處貧賤,不自同於凡庸,常以負薪餘閑,學書疏,講兵事。

(訳)

呉書にいう、

もとの南陽なんよう太守の黄子廉こうしれんの後裔であり

枝葉が分離して、祖父の代から

零陵れいりょうに遷り、遂に家宅とした。


黄蓋は少くして孤児となり

嬰児の頃から荘丁まで

凶事、難事に見舞われて

辛酸をつぶさに嘗めた。


しかしながら壮志を有しており

貧賤に処していても

自ら凡庸な者に同調せず

常に薪を背負って(働いて)

余暇には書疏しょそを学んで

兵事について研究していた。


(註釈)

黄蓋は零陵の人。

無双だと黄蓋バスターで一部に有名。


後漢書文宛伝に載っている

黄香こうこうの子孫だと思われる。

黄香は安帝の時代に魏郡太守。


「黄姓簡史」によると

黄氏の家系はこんな感じ。


黄香に子が八人。

黄瓊こうけい黄瑰こうかい黄琏こうれん黄琛こうしん

黄瓚こうさん黄珂こうか黄珮こうはい黄理こうり

全員諱は王偏で字に世が入ってる。


黄瓊に十四子あり、

黄守亮こうしゅりょう黄閣こうかく黄妥こうだ黄儲こうしょ黄賤こうせん

黄明こうめい黄恕こうじょ黄乾こうけん黄缙こうしん黄卿こうけい

黄賁こうひ黄資こうし黄賛こうさん黄德こうとく


黄守亮が河南や南陽の黄氏の祖。

130〜140年頃に儒学をもって仕え

南陽なんよう太守に任じられた。

馬が飲むたびに

水に銭を投じたという逸話があり

あの陶淵明とうえんめいが、彼を題材にした

詩をつくった、らしい。


黄閣の子が、董卓が三公に抜擢し、

士燮伝にも登場した黄琬こうえん

黄琬の子が、蜀魏に仕えた黄権こうけんらしい。

巴西の人って書いてあったから

江夏黄氏から出てるとは思いもよらなかった。


黄香の五男の黄瓚こうさんに五子あり、

黄孚仁こうふじん黄孚義こうふぎ黄孚礼こうふれい黄孚智こうふち黄孚信こうふしん

仁・義・礼・智・信だね。


黄孚仁、またの名を黄安こうあん──の子が黄蓋こうがいである。


黄香の末っ子の黄理の子に黄孚勇こうふゆう

黄孚勇の子に、諸葛亮の義理の父、黄承言こうしょうげん


「黄瓚」は、黄香の五男と

黄琬の弟で、二人いる。


黄琬の弟の方の黄瓚は、字を子桓しかん

南陽なんようにうつる。子に黄簪こうしんと黄缨。


黄簪は字を順伯じゅんはく

子に黄智頃こうちこう黄信民こうしんみん


黄智頃の子が、劉備に仕えた黄忠こうちゅう



まとめるとこう。


       黄香

 ┏━━━━━┷━━━━┳━━━┓

黄瓊          黄瓚  黄理

 ┣━━━┓      ┃   ┃

黄守亮  黄閣     黄孚仁 黄孚勇

     ┣━━━┓  ┃   ┃

     黄琬  黄瓚 黄蓋  黄承言

     ┃   ┃

     黄権  黄智頃

         ┃

         黄忠


黄忠、黄蓋、黄承言、黄権

みんな親戚だったのか。


こう見ると、黄忠は

黄承言や諸葛亮の推薦で

劉備りゅうびに仕えたんじゃないかと

思えてくる。


「黄子廉」は「黄守亮」と同一人物???

黄瓚Aと黄瓚Bも本当は同じ人かもしれない。


正史にちゃんと書かれてる

わけじゃないので

まぁ、こんな説もあるんだよ

くらいに捉えて

決して鵜呑みにしないでください。


黄蓋は荊南に枝分かれして

父(黄孚仁)を早くに亡くしたため

没落してしまった模様。


程普は黄巾の乱の時から

既に孫堅軍にいたのは確定だが、

黄蓋は、孫堅が荊州南部の長沙に

赴任してきたあたりで

この軍閥に加わったんじゃなかろうか。

または、宛の黄巾討伐の時かな。


また、程普と比較して

孫策期の事績に乏しい。


孫策伝の引く呉録に載っている

孫策の上奏文では

「行武鋒校尉の黄蓋」とあり

黄祖の討伐に参加してたもよう。

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