註一・註二、羌族、劉冑、獠族討伐
註1.
益部耆舊傳曰:嶷出自孤微,而少有通壯之節。
(訳)
益部耆舊伝にいう、
張嶷の出自は孤微であったが、
少くして壮年に通じる節操を有していた。
註2.
益部耆舊傳曰:嶷受兵馬三百人,隨馬忠討叛羌。嶷別督數營在先,至他裡。邑所在高峻,嶷隨山立上四五里。羌於要厄作石門,於門上施床,積石於其上,過者下石槌擊之,無不糜爛。嶷度不可得攻,乃使譯告曉之曰:「汝汶山諸種反叛,傷害良善,天子命將討滅惡類。汝等若稽顙過軍,資給糧費,福祿永隆,其報百倍。若終不從,大兵致誅,雷擊電下,雖追悔之,亦無益也。」耆帥得命,即出詣嶷,給糧過軍。軍前討餘種,餘種聞他裡已下,悉恐怖失所,或迎軍出降,或奔竄山谷,放兵攻擊,軍以克捷。後南夷劉冑又反,以馬忠為督庲降討冑,嶷复屬焉,戰鬥常冠軍首,遂斬冑。平南事訖,牂牁興古獠種復反,忠令嶷領諸營往討,嶷內招降得二千人,悉傳詣漢中。
(訳)
益部耆舊伝にいう、
張嶷は兵馬三百人を受け
馬忠に隨って叛いた羌族を討伐した。
張嶷は(馬忠と)別れて
いくつかの陣営を監督して
先の方に在り、他裡へ至った。
邑は高く険しい所にあり、
張嶷は山に隨って
四、五里ほど立ち上った。
羌族は要害に石の門を作り
門の上に床を施いて
その上に石を積み上げ、
通過する者に石を落下させて
槌を振り下ろすように
これを撃っており
糜爛せぬ者はなかった。
張嶷は攻める事は出来ぬと度り
そこで訳者を遣わして
彼らに告げ諭して述べた。
「汝ら汶山の諸種族は叛逆して
善良なるものを傷つけ、害っているが
天子は凶悪なやからを
討滅せよと命じられた。
汝らがもし稽顙して軍を通過させ
糧秣や軍費を提供したならば
福禄は永らく盛んなものとなり
その報いは百倍にもなろう。
もし終に従わなかったならば
大軍が誅殺のために至り、
雷が直撃し、稲妻が落ちる
(かのような激烈な攻撃が展開される)
であろう。
これを追悔したとしても
また無益な事であるぞ」
耆帥は命を得ると、即座に出てきて
張嶷のもとを詣で、
糧秣を供給して軍を通過させた。
軍を進めて残った種族を討った。
残りの種は他裡が已に下ったと聞くと
悉くが恐怖して我を失い、
軍を迎えて投降を願い出るものもあれば
逃げ出して山谷に鼠竄するものもいた。
(張嶷は)兵を放って攻撃し
軍は勝利をおさめた。
後に、南方の夷狄である劉冑が再び反くと
馬忠が庲降の督となって劉冑を討ち
張嶷もまた配属された。
戦いぶりは常に軍の先頭にて
冠絶したものであり、
遂に劉冑を斬った。
南方平定の事業を終えると
牂柯・興古の獠種がまたも反逆したので
馬忠は張嶷に諸陣営を統領して
討伐に向かうよう命じた。
張嶷は内に降伏者を招いて
二千人を得ると、
悉くを漢中へ転送した。
(註釈)
蜀の南の方反乱起こりすぎててヤバい。
そりゃ呂凱も殺されるわ。
獠は、シティーハンターのこと
……ではない。
中国語のwikiによると
古代中国の南方の蛮族、
南部の少数民族の蔑称。
秦漢から永嘉の乱で
中原からの移民が相次ぎ
だんだん性質が変わっていった?
とある。




