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淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第十三、馬忠伝
442/603

一、南の馬忠

1.

馬忠字德信,巴西閬中人也。少養外家,姓狐,名篤,後乃復姓,改名忠。為郡吏,建安末舉孝廉,除漢昌長。先主東征,敗績猇亭,巴西太守閻芝發諸縣兵五千人以補遣闕,遣忠送往。先主已還永安,見忠與語,謂尚書令劉巴曰:「雖亡黃權,復得狐篤,此為世不乏賢也。」建興元年,丞相亮開府,以忠為下督。三年,亮入南,拜忠牂牁太守。郡丞朱褒反。叛亂之後,忠撫育卹理,甚有威惠。八年,召為丞相參軍,副長史蔣琬署留府事。又領州治中從事。明年,亮出祁山,忠詣亮所,經營戌事。軍還,督將軍張嶷等討汶山郡叛羌。十一年,南夷豪帥劉冑反,擾亂諸郡。徵庲降都督張冀還,以忠代冀。忠遂斬冑,平南土。加忠監軍、奮威將軍,封博陽亭侯。初,建寧郡殺太守正昂,縛太守張裔於吳,故都督常駐平夷縣。至忠,乃移治味縣,處民夷之間。又越嶲郡亦久失土地,忠率將太守張嶷開复舊郡,由此就加安南將軍,進封彭鄉亭侯。延熙五年還朝,因至漢中,見大司馬蔣琬,宣傳詔旨,加拜鎮南大將軍。七年春,大將軍費韋北禦魏敵,留忠成都,平尚書事。禕還,忠乃歸南。十二年卒,子脩嗣。忠為人寬濟有度量,但恢啁大笑,忿怒不形於色。然處事能斷,威思並立,是以蠻夷畏而愛之。及卒,莫不自致喪庭,流涕盡哀,為之立廟祀,迄今猶在。張表,時名士,清望逾忠。閻宇宿有功幹,於事精勤。繼踵在忠後,其威風稱績,皆不及忠。


(訳)

馬忠ばちゅうは字を徳信とくしん巴西はせい閬中(ろうちゅう)県の人である。


少くして外家(母方の家)に養われ、

姓は、名はとくといったが、

後に復姓し、名を忠と改めた。


郡の吏となった。


建安年間の末期(〜220)に

孝廉こうれんに推挙され、漢昌かんしょうの長に除された。


先主が東征して猇亭おうていで敗北を重ねると

巴西太守の閻芝えんし

諸県から五千人を徴発する事で

闕乏けつぼうを補おうとし、

馬忠に送って往かせた。


先主は已に永安へ帰還しており、

馬忠と見えてともに語ると

尚書令の劉巴りゅうはに向かって言った。


黄権こうけんを失ってしまったと雖も

また狐篤を得た。これは、世に

賢人は乏しからず、という事であるな」


建興元年(223)、

丞相の諸葛亮が開府すると

馬忠を(門)下督とした。


三年(225)、諸葛亮が南方へ入ると

馬忠は拝されて牂柯しょうか太守となった。


郡の丞の朱褒しゅほうが反いた。

反乱の後、馬忠は(民衆を)撫育し、

憐憫の情をもって統治し、

甚だ威厳と恩恵が有った。


八年(230)、召されて丞相参軍となり

長史の蒋琬しょうえんの副次として

留府の事業をつかさどった。


また、州の治中従事じちゅうじゅうじを拝領した。


明年、諸葛亮が山に出撃すると

馬忠は諸葛亮の所を詣でて

戦事を経営した。


軍が帰還した後、

将軍の張嶷ちょうぎょくらを監督して

びん山郡で叛逆した羌族を討った。


十一年(233)、

南方の夷狄の豪帥である

劉冑りゅうちゅうが反き、諸郡は擾乱した。


庲降都督らいこうととく張翼ちょうよくを徵して

馬忠を張翼の代役とした。


馬忠はかくて劉冑を斬り

南方の地を平定した。

忠監軍ちゅうかんぐん奮威ふんい将軍を加えられ

博陽はくよう亭侯に封じられた。


以前に建寧けんねい郡が太守の正昂せいこうを殺し

太守の張裔ちょうえいが呉のために

捕縛された事があったため

都督は平夷へいい県に常駐していた。

馬忠は到着すると、そこで

治所を味県に移して民夷の間に居した。


一方で、越嶲えっすい郡もまた

久しく土地を失っていたため、

馬忠は太守の張嶷を率いて

再び旧来の郡を開拓した。

これに由り、安南将軍を加えられ

昇進して彭郷ほうきょう亭侯に封じられた。


延煕えんき五年(242)、帰朝すると、

そこで漢中かんちゅうへと向かって

大司馬の蒋琬と見え、詔旨を宣伝して

鎮南大将軍を加えられた。


七年(244)春、大将軍の費韋ひい(費禕)が

北方で魏の敵軍を禦いだ際に

馬忠を成都に留めて

尚書の事業を治めさせた。


費禕が帰還すると

馬忠はかくて南へ戻った。


十二年(249)に卒し、子の馬修ばしゅうが嗣いだ。


馬忠の人となりは寛大で

度量を有しており、

ただ恢啁(冗談を言って)して

大笑いするのみで

忿怒を顔色にあらわさなかった。


しかし、仕事の処理に関しては

よく裁断し、威厳と思慮を兼ね備えており

これによって蛮夷は畏れつつも

彼を敬愛していた。


卒するに及んで

自ら喪庭(位牌のある場所)へ

至り、流涕して

哀しみを尽くさない者はなく、

彼のために廟祀を立てた。


それは、今もなお存続している。


張表ちょうひょうは当時の名士であり

清らかな声望においては

馬忠を超えていた。

閻宇えんうはかねてより才幹を有し

仕事においては精勤した。


馬忠の後任に当たって継踵するも

その威風や、称賛されるべき功績では

いずれも馬忠には及ばなかった。


註1.

脩弟恢。恢子義,晉建寧太守。


(訳)

馬修の弟は馬恢ばかい

馬恢は字を子義、晋の建寧太守である。


註2.

益部耆舊傳曰:張表,肅子也。華陽國志云:表,張松子,未詳。閻宇字文平,南郡人也。


(訳)

益部耆舊えきぶききゅう伝にいう、

張表は張肅ちょうしゅくの子である。


華陽国志かようごくしにいう、

張表は張松ちょうしょうの子だが、詳らかでない。


閻宇えんうは字を文平ぶんへい、南郡の人である。



(註釈)

馬忠の母方は狐姓で、

もとは狐篤ことくと名乗っていた。


関羽を捕えた呉将も

「馬忠」って名前だったから

いたずらにヘイト貯めないように

劉備が生きている間は

狐篤って名乗ってたとかありそう。


南方を約二十年統治して

異民族からも大いに慕われた。

一節のみで終了だけど

優秀さは大いに伝わりました。



馬忠評価


戦闘 ★★★★★★ 6


劉冑や汶山郡の羌族を平定し

越嶲郡を取り戻す。


戦略 ★★★★★ 5


ここは特に加点要素なし


内政 ★★★★★★★ 7


南方治めて二十年、

伊達に「南の馬忠」と呼ばれちゃいない。

諸葛亮、蒋琬、費禕のサポートに回り

大過なくまとめる。


人格 ★★★★★★★★ 8


恩徳と威信が大いに行き渡り、

死後も廟が立てられて

祀られるほどに尊敬を集めていた。


劉備の

「黄権を失ったが狐篤を得た、

これは世に賢者は少なくないという事よ」

というセリフが好き。



続いて、オウヘイヘイこと王平おうへい伝。


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