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淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第十三、李恢伝
436/603

一、馬超を説得する

今回は黄権こうけんだけやって放置していた

蜀書十三巻の続きをやります。


まずは

何がむむむだ! の李恢りかい伝。

1.

李恢字德昂,建寧俞元人也,仕郡督郵,姑夫爨習為建伶令,有違犯之事,恢坐習免官。太守董和以習方土大姓,寢而不許。

後貢恢於州,涉道末至,聞先主自葭萌還攻劉璋。恢知璋之必敗,先主必成也,乃託名郡使,北詣先主,遇於綿竹。先主嘉之,從至洛城,遣恢至漢中交好馬超,超遂從命。成都既定,先主領益州牧,以恢為功曹書佐、主簿。後為亡虜所誣,引恢謀反,有司執送。先主明其不然,更遷恢為別駕從事。章武元年,庲降都督鄧方卒,先主問恢:「誰可代者?」恢對曰:「人之才能,各有長短,故孔子曰『其使人也器之』。且夫明主在上,則臣下盡情,是以先零之役,趙充國曰『莫若老臣』。臣竊不自量,惟陛下察之。」先主笑曰:「孤之本意,亦已在卿矣!」遂以恢為庲降都督,使持節領交州刺史,住平夷縣。

(訳)

李恢りかいは字を徳昂とくこう

建寧けんねい俞元(ゆげん)県の人である。


郡に督郵として仕えたとき

姑夫の爨習さんしゅう建伶けんれいの令であったが

違犯の事が有り、李恢は

爨習に連座して免官となってしまった。


太守の董和とうかは爨習が

地方の大姓である事から

寝かせて許さなかった。

(李恢が仕事クビになるのを)


その後、州に於いて貢挙され

道をわたっていまだ至らぬうちに

先主(劉備)が葭萌かぼうより引き返して

劉璋を攻撃している事を耳にした。


李恢は劉璋が必ずや負け、

先主が必ずや成功するだろうと察知して

そこで、郡からの使者という

名分に託けて北方の先主を詣で、

綿竹めんちくに於いて会遇した。


先主はこれを嘉し、

従って洛城へと至ると、

李恢を漢中へと至らせて

馬超との好誼を結ばせた。

馬超はかくて命に従った。


成都が平定されたあと

先主は益州牧を領し、

李恢を功曹こうそう書佐しょさ主簿しゅぼとした。


その後、逃亡した虜囚が

「李恢が謀反を誘引した」と誣告し、

有司は(李恢を)捕え、送ってしまった。


先主はそれが間違いである事を明らかにして

改めて李恢を遷して別駕従事とした。


章武元年(221)に

庲降らいこう都督の鄧方とうほうが卒し、

先主は李恢に問うた。


「誰を代わりとすべきだろうか?」


李恢は対して言った。


「人の才能にはそれぞれ長短がございます。

故に孔子は〝その人を使うは

これを器にす〟と言っているのです。


かつ、そもそも明主が上に在れば

則ち臣下は情を尽くします。

これにより、先零の戦役で

趙充国ちょうじゅうこくは〝老臣に若くは莫し〟

と述べたのです。


臣は密かに自らを量らず、

ただ陛下にこれを

察していただきとう存じます」


先主は笑って言った。


「孤の本意もまた、既に卿に在ったのだ!」


かくて李恢を庲降都督とし、

節を持たせて交州刺史を拝領させて

平夷県へと往かせた。


註1.

華陽國志曰:習後官至領軍。

(訳)

華陽国志にいう、

爨習はのちに官位が領軍まで至った。


註2.

臣松之訊之蜀人,云庲降地名,去蜀二千餘里,時未有寧州,號為南中,立此職以總攝之。晉泰始中,始分為寧州。

(訳)

わたくし松之がこれを蜀人に訊ねたところ、

庲降らいこうは地名であり

蜀を去る事二千余里で、

当時はまだ寧州が存在せず

「南中」と号されていた。

この職(庲降都督)を立てる事で

これを統制したのだ」

と云っていた。


晋の泰始年間(265〜274)に初めて

(益州を)分割して寧州が作られた。



(註釈)

横山三国志の「何がむむむだ!」で

よく知られている李恢りかい

馬超ばちょうを劉備陣営に引き入れた功労者。


かなり南の方にいるから

三國志11だと南蛮勢力に登用されて

知力95まで上げられてる事が多かったな。


鄧方とうほうは季漢輔臣賛に出て来た

鄧孔山と同一人物だと思われる。

李恢伝だと章武一年に卒し、

輔臣賛だと章武二年に卒したって

書かれてるんだけど、

どっちが正しいんだろうね。


鄧方が死ぬと、李恢が代わって庲降都督。

この時の劉備とのやり取りがすごく面白い。

スタイリッシュな自薦だ。


「晋書」地理志にいう、

ねい州は、漢魏の為していた益州の領域。

泰始七年(271)、

武帝(司馬炎)は益州が広すぎる事から

建寧けんねい興古こうこ雲南うんなん、そして交州の永昌えいしょう

四つの郡を合わせて寧州とした。

統べる県は45、戸数は83000。


「雲南郡」は蜀が置いた。

統べる県は9、戸数9200。

雲平、雲南、梇棟、青蛉、姑復、

邪龍、楪榆、遂久、永寧の9県。


「興古郡」は蜀が置いた。

統べる県は11、戸数6200。

律高、句町、宛温、漏臥、毋掇、賁古

滕休、鐔封、漢興、進乗、都篖の11県。


「建寧郡」は蜀が置いた。

統べる県は17。戸数29000。

味、昆澤、存䣖、新定、談槀、母単

同瀬、漏江、牧麻、穀昌、連然、秦臧、

雙柏、俞元、修雲 泠丘 滇池の17県。


「永昌郡」は漢が置いた。

統べる県は8。戸数38000。

不韋、永寿、比蘇、雍郷、

南涪、巂唐、哀牢、博南の8県。


確かに、益州広すぎるもんね。

人口密度は中原に比べりゃ月とスッポン。


寧州ができる前に南中と呼ばれた地、

劉備は庲降らいこう都督ととくを置いて

その統治を一任していた。


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