一・二、会稽の風水師
今回は呉書十八。
方技伝的な扱いで
全編ぱっと見手品大会です。
1.
吳范字文則,會稽上虞人也。以治歷數知風氣聞於郡中。舉有道,詣京都,世亂不行。會孫權起於東南,范委身服事,每有災祥,輒推數言狀。其術多效,遂以顯名。
(訳)
呉範は字を文則、会稽郡上虞県の人である。
暦数を治め、風気を知っている事から
郡中に聞こえていた。
有道に推挙されて
京都を詣でる事となったが、
世が乱れている事から、履行しなかった。
ちょうど孫権が東南に決起した頃、
呉範は身を委ねて服事し、
災害や瑞祥が起こるたびに
その都度情理を推し量って
状況を陳述したが(絵で表現した?)
そうした術が効果をあらわす事が多く
遂には名が顕らかとなった。
(註釈)
呉範ちゃんが風水師になっちまっただ。
200年前後?くらいに
察挙科目の一つの有道に
推挙されたが、情勢不安から
都へ赴く事はしなかった。
孫権に仕えて、
占いでこれをサポートした。
災害や瑞祥が起こると
原因とかその意味とかを
教えてくれるポジション。
蜀にも呉班がいるけど、別人です。
2.
初,權在吳,欲討黃祖。范曰:“今茲少利,不如明年。明年戊子,荊州劉表亦身死國亡。”權遂征祖,卒不能克。明年,軍出,行及尋陽,范見風氣,因詣船賀,催兵急行,至即破祖,祖得夜亡。權恐失之,范曰:“未遠,必生禽祖。”至五更中,果得之。劉表竟死,荊州分割。及壬辰歲,范又白言:“歲在甲午,劉備當得益州。”後呂岱從蜀還,遇之白帝,說備部眾離落,死亡且半,事必不克。權以難范,范曰:“臣所言者天道也,而岱所見者人事耳。”備卒得蜀。
(訳)
当初、孫権は呉に在りて
黄祖を討伐しようと考えていた。
呉範は言った。
「今この(状況では)利が少なく、
明年になさるに越した事はございません。
明年は戊子であり、
荊州の劉表もまた死して
国が亡びます」
孫権は遂に黄祖を征伐したが
結局勝利する事はできなかった。
明年(208)、軍を出して
行軍は尋陽に及んだ。
呉範は風気を見、そこで
船を詣でて祝賀し、
兵に急行するよう催促して
到着するや黄祖を破った。
黄祖は夜に逃げ果せた。
孫権はこれを見失う事を恐れたが
呉範は言った。
「遠からずして必ずや黄祖を生捕りにできます」
五更の時刻内に至って、
果たせるかな彼は捕われた。
劉表も竟には死に、
荊州は分割された。
壬辰の歳(212)に及んで
呉範はまたも建白した。
「歳が甲午に至る頃(214)に
劉備が益州を得るでしょう」
その後、呂岱が蜀より帰還して
白帝でこれ(劉備)と遭遇し、
「劉備の部衆は離散落伍して
使者が半数にのぼろうとしており、
事は間違いなく成就しません」
と説いた。
孫権は呉範を非難したが、呉範は言った。
「臣の申し上げる所は天道であり、
呂岱の見た所は人事にすぎません」
劉備はついに蜀を得た。
(註釈)
おめぇの出番だぞ、呉範!
黄祖と劉表の末路を予言し、
劉備の蜀取りも成功すると断言。
帰りがけに劉備を見かけた呂岱が
「劉備軍ぼろぼろですよ、負けます」
と報告したため、孫権は難癖をつけたが
結局これも当たった。
劉備、雒城で超手間取ってたけど
本当に兵士半分もやられてたの?
劉備の入蜀については
趙雲伝、法正伝に詳しいです。




