六・註六、屯田の考案者
韓浩と史渙伝
6.
韓浩者,河内人。及沛國史渙與浩俱以忠勇顯。浩至中護軍,渙至中領軍,皆掌禁兵,封列侯。
(訳)
韓浩は河内の人。
沛国の史渙と、韓浩は
倶に忠勇を顕らかにするに及んだ。
韓浩は中護軍に至り、
史渙は中領軍に至り、
いずれも禁兵(近衛兵)を掌って
列侯に封じられた。
(註釈)
兗州が呂布に乗っ取られた時
人質に取られた夏侯惇を顧みずに
敵に向かっていった韓浩は河内人。
司馬懿や山濤なんかと同郡ね。
演義だとなぜか韓浩は
長沙太守韓玄の弟にされてる。
演義の53回で
関羽が長沙に攻め入った時
老将黄忠が立ちはだかる。
両雄一騎討ちを演じた際、
関羽が落馬した黄忠を見逃した。
再戦時、長沙太守韓玄が
「黄忠、お前なら弓を使えば楽勝だろ」
と弓の使用を促すのだが
関羽の心意気に感化され
殺すには忍びないと考えた黄忠。
果たしてあくる日の再戦、
黄忠は弓をわざと放たずに
関羽の兜を射ることで
先日の恩に報いた。
「さぁ関羽、貸し借りなりで
正々堂々決着をつけようぜ!」
っていう黄忠の粋な計らいなんだけど、
韓玄はこれを造反と見做して
黄忠を殺そうとする。
そこへ魏延が割って入って
あべこべに韓玄を殺し、
劉備陣営に投降する、という筋書き。
韓浩は黄忠を兄の仇として付け狙いますが
あっさり返り討ちにされます
むしろ仇は魏延なんやけど。
正史と演義でだいぶ異なる韓浩像です。
註6.
魏書曰:韓浩字元嗣。漢末兵起,縣近山藪,多寇,浩聚徒眾爲縣籓衛。太守王匡以爲從事,將兵拒董卓於盟津。時浩舅杜陽爲河陰令,卓執之,使招浩,浩不從。袁术聞而壯之,以爲騎都尉。夏侯惇聞其名,請與相見,大奇之,使領兵從征伐。時大議損益,浩以爲當急田。太祖善之,遷護軍。太祖欲討柳城,領軍史渙以爲道遠深入,非完計也,欲與浩共諫。浩曰:「今兵勢彊盛,威加四海,戰勝攻取,無不如志,不以此時遂除天下之患,將爲後憂。且公神武,舉無遺策,吾與君爲中軍主,不宜沮眾。」遂從破柳城,改其官爲中護軍,置長史、司馬。從討張魯,魯降。議者以浩智略足以綏邊,欲留使都督諸軍,鎮漢中。太祖曰:「吾安可以無護軍?」乃與俱還。其見親任如此。及薨,太祖愍惜之。無子,以養子榮嗣。史渙字公劉。少任俠,有雄氣。太祖初起,以客從,行中軍校尉,從征伐,常監諸將,見親信,轉拜中領軍。十四年薨。子静嗣。
(訳)
魏書にいう、
韓浩は字を元嗣という。
漢末に挙兵したが、
県は山藪に近く賊徒が多かったので
韓浩は徒衆を集めて
県の藩衛となった。
(河内)太守の王匡は
(韓浩を)従事と為し、
兵を率いて董卓を盟津に拒がせた。
時に韓浩の舅の杜陽が
河陰の令となっており、
董卓はこれを捕えて
韓浩を招かせたが、
韓浩は従わなかった。
袁術は(この話を)聞いて
彼を雄壮であると見なし、
騎都尉とした。
夏侯惇はその名を聞いて
ともに相見える事を請い、
彼を大変に立派なものと見なして
兵を統領させ征伐に従軍させた。
時に損益について大いに議論されており
韓浩は田圃の件について
急いで実行すべきとした。
太祖はこれを愛で、護軍に遷った。
太祖が柳城を討とうとした際、
領軍の史渙は
道が遠く、深入りする事は
完全な計略ではないと考えて
韓浩と共に諌めようとした。
韓浩は言った。
「今、兵の勢いは強く盛んで
威は四海に加わりて
戦っては勝ち攻めては取り
志の如くにできぬ事はござらぬ。
この時を以って遂には
天下の患いを除かねば
後の憂いとなるであろう。
且つ、(曹)公の武略は神の如くで
挙げられる策には遺漏が無い。
吾と君は中軍の主と為っており
部衆を沮喪させるべきではあるまい」
遂に従いて柳城を破った。
その官位は改められ
中護軍となり、長史と司馬が置かれた。
張魯討伐に従い、張魯は降伏した。
論者は、韓浩の智略は
辺境を安んずるに足るものとして
留めて諸軍を都督させ
関中を鎮めさせようと考えた。
太祖は言った。
「吾がどうして
護軍(韓浩)がおらぬ事など
考えられようか?」
かくて倶に帰還した。
その親任されている様子は
かくの如くであった。
薨じるに及んで
太祖はこれを愍惜した。
子は無く、養子を以って韓栄が嗣いだ。
史渙は字を公劉という。
少くして任侠となり、男気があった。
太祖が初めて挙兵すると
客分として従い、
行中軍校尉として征伐に従軍した。
常に諸将を監督して
親しまれ、信任された。
転じて中領軍に拝された。
(建安?)十四年に薨じた。
子の史静が嗣いだ。
(註釈)
仲間を集めてホームを守ってた経緯は
許褚のそれに近いかな。
王匡と董卓と袁術からもお呼びがかかってるけど
最終的に夏侯惇が韓浩のスカウトに成功。
河内太守の王匡は現地太守だから当然として
袁術は、まだ南陽太守だった頃と考えると
河内郡は結構近いし、自然。
そして、人質取って脅す作戦は
呂布も董卓もやったけど
韓浩には通用しない事がわかった。
青州黄巾吸収して
一気に大所帯になったのとか
兗州の戦で食糧難に陥ったのとかで
(たぶん)
曹操は屯田兵のシステムを導入。
これを提案したのが
韓浩や、東阿令の棗祗だったとされます。
地味にすごい功績?
柳城、漢中張魯戦にも参加。
関中の守りは韓浩に任せるべき
という意見があがったが
曹操は「そばに置いときたい」
としてこれを却下した。
関中のおさえはできれば
身内にしたかったんだろうね。
韓浩評価
戦闘 ★★★★★★ 6
戦略 ★★★★★★★ 7
内政 ★★★★★★★ 7
人格 ★★★★★ 5
屯田の功績はどっちかというと
棗祗の方が大きいと判断して内政7。
武官としては珍しい能力傾向。
史渙の字は、「劉」を入れるって
桓石虔とか謝安のアンチ石氏みたいな感じで
後漢王朝クソ喰らえって事?
挙兵当初から曹操に付き従ってる
かなりの古参。
建安十四年(209)?に亡くなった。
これにて夏侯惇伝を終わります。




