註四・註五、武略なき夏侯子林/魏の功臣忘れまじ
註4.
魏略曰:楙字子林,惇中子也。文帝少與楙親,及即位,以爲安西將軍、持節,承夏侯淵處都督關中。楙性無武略,而好治生。至太和二年,明帝西征,人有白楙者,遂召還爲尚書。楙在西時,多畜伎妾,公主由此與楙不和。其後羣弟不遵禮度,楙數切責,弟懼見治,乃共構楙以誹謗,公主奏之,有詔收楙。帝意欲殺之,以問長水校尉京兆段默,默以爲「此必清河公主與楙不睦,出於譖構,冀不推實耳。且伏波與先帝有定天下之功,宜加三思」。帝意解,曰:「吾亦以爲然。」乃發詔推問爲公主作表者,果其羣弟子臧、子江所構也。
(訳)
魏略にいう、
夏侯楙は字を子林、夏侯惇の中子である。
文帝(曹丕)は少い頃に
夏侯楙と親善であったので
即位するに及んで安西将軍・持節となり、
夏侯淵の部署を継承して
関中を都督した。
夏侯楙の性向としては、
武略に長けておらず
治生(生計を謀る、利殖)を好んだ。
太和二年(228)に至って
明帝(曹叡)が西征すると、
夏侯楙の事を建白する者が有り、
かくて召還されて尚書となった。
夏侯楙が西に在る時、
多くの伎妾を蓄え
公主(妻)はこの事が由来で
夏侯楙とは不和であった。
その後、群弟が礼度に遵わず、
夏侯楙が幾度か痛切に責譲すると、
弟達は処分に遇う事を懼れ、
そこで共に夏侯楙を誹謗する事で
構陥しようと考え
公主がこれを上奏した。
詔が有り、夏侯楙は収容された。
帝はこれを殺そうと考え、
長水校尉である京兆の段黙に諮問した。
段黙の見解は、
「これは間違いなく、
清河公主と夏侯楙が睦まずに
(夏侯楙を)陥れる誹謗として出されたもので
事実を推察されぬ事を
冀っているにすぎませぬ。
且つ、伏波(将軍の夏侯惇)は
先帝(額面では曹丕だが文脈的に曹操)
とともに天下を
平定した功績がございます。
宜しく三思(熟慮)を加えられますよう」
帝の(夏侯楙を殺そうという)
気持ちは解れ、こう述べた。
「吾も尤もだと思う」
そこで、詔を発して
公主の為に上表を作した者を
推問すると、果たせるかな
その群弟の子臧と子江が
構陥したものであった。
(註釈)
醜という諡号を贈られた呉質、
公主ほっぽって女と遊んでる夏侯楙、
三回寝返ってる孟達、
結果的に魏を乗っ取る司馬懿、
曹丕の人物を見抜く眼力は凄い。
戦術より畜産に長けた夏侯楙を
関中の総督に置いており
これは同じ魏略の中で
蜀将の魏延にも突っ込まれている。
夏侯楙の弟達も
叱責されたからって
兄を陥れようと動いてるし
褒められたやつらではない。
夏侯淵の子はみんな優秀なのに
夏侯惇の子はみんなろくでもないな。
ただ、夏侯楙のサゲ記事は
魏略にしかなく、本文では
顕官を歴任した事しか書かれてません。
註5.
晉陽秋曰:泰始二年,高安鄉侯夏侯佐卒,惇之孫也,嗣絕。詔曰:「惇,魏之元功,勳書竹帛。昔庭堅不祀,猶或悼之,況朕受禪於魏,而可以忘其功臣哉!宜擇惇近屬劭封之。」
(訳)
晋陽秋にいう、
泰始二年(266)に
高安郷侯の夏侯佐が卒した。
夏侯惇の孫であったが、後嗣は絶えてしまった。
詔にいう、
「夏侯惇は魏の元功でおり、
勲功は竹帛に書き記されている。
かつて庭堅が祀られなかった時も
なおこれを悼む者もいた。
況してや朕(司馬炎)は
魏から禅譲を受けており、
その功臣を忘れる事などできようか。
宜しく夏侯惇の近親を択び
これを劭封すべきであろう」
(註釈)
夏侯淵の孫に并州刺史の夏侯駿。
夏侯淵の曾孫の夏侯湛は
潘岳とともに「連璧」と謳われた。
西晋の恵帝の代に49歳で亡くなった。
夏侯湛の一門は大いに栄えていた。
弟の夏侯淳の子、夏侯承は
戦乱を避けて南遷、東晋に仕えた。
夏侯惇系はどうなったんだろう。
石勒載記に下邳内吏の夏侯嘉
穆帝紀に日南太守の夏侯覧
李含伝に夏侯奭
なんかが出てくるんですが
みんな殺されてる。




