六、孫呉介入、老獪な手腕
6.
後巨與恭相失,舉兵逐恭,恭走還零陵。建安十五年,孫權遣步騭為交州刺史。騭到,燮率兄弟奉承節度。而吳巨懷異心,騭斬之。權加燮為左將軍。建安末年,燮遣子廞入質,權以為武昌太守,燮、壹諸子在南者,皆拜中郎將。燮又誘導益州豪姓雍闓等,率郡人民使遙東附,權益嘉之,遷衛將軍,封龍編侯,弟壹偏將軍,都鄉侯。燮每遣使詣權,致雜香細葛,輒以千數,明珠、大貝、流離、翡翠、玳瑁、犀、象之珍,奇物異果,蕉、邪、龍眼之屬,無歲不至。壹時貢馬凡數百匹。權輒為書,厚加寵賜,以答慰之。燮在郡四十餘歲,黃武五年,年九十卒。
(訳)
その後、呉巨は頼恭と
しっくり行かなくなり、
兵を挙げて頼恭を逐いやった。
頼恭は零陵へ逃げ帰った。
建安十五年(210)、
孫権が歩騭を派遣して
交州刺史とした。
歩騭が到ると、士燮は兄弟を率いて
節度(指図)を奉じた。
しかして呉巨は異心を抱いており
歩騭は彼を斬った。
孫権は士燮に左将軍の位を加えた。
建安の末年(220)に
士燮は子の士廞を人質として入れさせ、
孫権は彼を武昌太守とした。
士燮や士壱の子どもたちで
南方に在った者は皆、中郎将に拝された。
士燮はまた、益州の豪族の
雍闓等を誘導し、
郡の人民を率いて
遥か東方(孫呉)へ懐附させた。
孫権はますますこれを嘉して
衛将軍に遷し、龍編侯に封じた。
弟の士壱は偏将軍、都郷侯となった。
士燮は使者に孫権を詣でさせる毎に
雑多な香や細かな葛を届けさせ
その都度で千を数える程であり、
明珠・大貝・流離(瑠璃)・翡翠・
玳瑁・犀・象といった珍物、
奇物や、変わった果物の
蕉・邪(椰子の実)・
龍眼の類が至らぬ歳はなかった。
士壱は当時、
馬を凡そ数百匹貢いでいた。
孫権はその都度書状を為し、
厚き恩寵や下賜を加えて
これに応え、慰労した。
士燮は郡に在る事四十余年、
黄武五年(226)に歳九十で卒した。
(註釈)
赤壁・南郡で曹操軍を追い散らした後、
交州支配に孫呉が名乗りを上げた。
接収にやってきた歩騭は
孫権最愛の妻・歩夫人の身内。
戦乱を避けて南遷したが
寄る辺もなく貧乏生活をおくる。
孫権に召されて
主記→海塩県長→車騎将軍東曹掾→鄱陽太守
と遷っていった。
初めは歩夫人の縁故採用だったけど
有能だったから、どんどん
大きな仕事を任されるように
なったのかな、逆か?
「呉主伝」にいう、
建安15年(210)に
孫権は豫章郡を分けて鄱陽郡をつくり
長沙郡を分けて漢昌郡をつくった。
漢昌には魯粛を遣り、
鄱陽には歩騭を遣ったのね。
魯粛も赤壁の戦いでやっと
周りの評価一変させた人だから
孫権は売り出し中の二人に
箔付けとして太守の座を与えたとかかな。
鄱陽太守に任命されたのと
同じ年、歩騭は交州刺史に大抜擢。
劉表が派遣した交州刺史の頼恭と
蒼梧太守の呉巨は、いつの間にか
仲違いしてしまっている。
役職的には頼恭のが上っぽいけど
利権関係とかでもめたのか
呉巨は上司の劉表が死んだのを見て
交州で独立しようとしたとかかな。
呉巨は歩騭に降ったけど面従腹背、
歩騭はその異心を見抜いて
笑裏蔵刀計で彼をくだした。
これ以降、交州は孫呉の傘下に入る。
この呉巨、劉備と旧交があり
曹操が荊州に攻め入った当初、
劉備は呉巨のいる交州へ
逃げようとしていたらしい。
でも魯粛が「あれは凡人だからやめなはれ」
と説いたので、考え直したんだそうな。
士燮は曹操から孫権に
あっさり鞍替えしてる感じだけど、
呉巨と比較してみたら
その選択は間違ってないのがわかるわね。
そして、これで士燮の莫大な収入が
そっくりそのまま孫権のものに
なったとは、とても考えられない。
日和見してたら奪われるし、
反抗すれば鎮圧されるし、
政治的調整力が問われそうな所。
とりあえず、毎年のように
珍宝、珍獣、バナナやヤシの実、
龍眼などの貴重な果物を
孫権のもとに送ってはいた。
220年に孫権は
呂岱を派遣して
交州刺史を交替させ、
歩騭は長沙に移った。
(呉書、歩騭伝)
10年交州を見てきた歩騭を
荊州へ配置換えしたのは、
劉備の東進に備える為と思ってたけど
呂岱をわざわざ交州に遣ったのは
士燮への牽制のためかな。
同年、士燮は息子を人質に差し出してる。
叛意の無いことを示したか。
孫権の目線で考えると、
交州の収益は是非とも欲しい。
でも数十年間交阯で
辣腕を振るう士燮に対して
そうそう強硬策には出れないと思う。
下手すりゃ蛮族もろとも一斉蜂起で、
山越の内憂を抱えてる孫権が
その事に頭回らないわけがない。
士燮は210年当時で
既に70過ぎの老人だったから
たぶん「ほっといてもそのうち死ぬべ」
という考えになりそう。
孫権はまだ29だから
どう考えても士燮の方が先に死ぬもん。
士燮が死んだら、少しずつ
交州の実益を孫呉のものに
していけばいい。
ところが、10年経っても
士燮が死んでくれず(84歳)
孫権もさすがに焦り出したのかも。
一流の文化人である士燮なら、歩騭とも
そこそこ友好的な関係を築けていたろう。
だから孫権は呂岱と交代させた、とか。
「力尽くで奪っちゃうぞ?」
という孫権の示威行為に対して、
士燮は人質を差し出してきた上
益州の豪族の雍闓らを
孫権に帰順させた。
この雍闓、高祖劉邦と仲悪かった
あの雍歯の子孫だそうで
益南では相当影響力があった人らしい。
劉備が死んだ時に
蜀に対して反乱を起こしたけど
これを呉に引き入れてるのは
かなりのファインプレーと思われる。
要は、孫権に貸しを作って
討伐の名目を与えさせなかったのね。
益州から人材引き抜くなんてのは
それこそ士燮しかできないだろうし。
自分を生かすメリットを
わかりやすく提示する、実に老獪です。
士燮はかくて90歳の天寿を
全うしましたが、当然
後任者を巡って一波乱あります。




