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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第四、士燮伝
408/603

一、交阯の士燮

呉書4巻のトリは士燮ししょう

90歳まで生きた中華南方、交州の雄。


劉繇りゅうよう太史慈たいしじは孫策に敗れたけど

士燮は孫権の時代に下された群雄。

といっても、干戈を交えたりせず

歩騭がうまく帰順させた形。


三国志演義だと

交州はほぼスルーされてるので

孫策が死んだ後、孫権が

領土増やしてるように見えない。

1.

士燮字威彥,蒼梧廣信人也。其先本魯國汶陽人,至王莽之亂,避地交州。六世至燮父賜,桓帝時為日南太守。燮少游學京師,事潁川劉子奇,治左氏春秋。察孝廉,補尚書郎,公事免官。父賜喪闋後,舉茂才,除巫令,遷交阯太守。

(訳)

士燮ししょうは字を威彦いげん蒼梧そうご広信(こうしん)県の人である。


その祖先は本来、魯国汶陽の人で

王莽の乱に至って交州へ避難していた。


六世代後、士燮の父の士賜しし

桓帝の時代に日南にちなん太守となった。


士燮は少くして京師へ遊学し

穎川の劉子奇りゅうしきに事えて

左氏春秋を治めた。


孝廉に推挙され、

尚書郎しょうしょろうに補されたが

公事で免官となった。


父・士賜の服喪期間が開けた後

茂才に推挙されて巫の令に除され

交阯こうし太守に遷った。



(註釈)

士燮。137年生まれだから

曹操より18歳も上。

劉表でもまだ5歳上。


交州で財を成した士一族のドン。


交州は、

南海なんかい蒼梧そうご鬱林うつりん合浦ごうほ交阯こうし九真きゅうしん日南にちなん

七郡から成る、最南の地。


後漢王朝における交阯は

どういう扱いだったのだろう。


  

後漢書岑彭伝にいう、

「初,彭與交阯牧鄧讓厚善,與讓書陳國家威德,又遣偏將軍屈充移檄江南,班行詔命。於是讓與江夏太守侯登、武陵太守王堂、長沙相韓福、桂陽太守張隆、零陵太守田翕、蒼梧太守杜穆、交恥太守錫光等,相率遣使貢獻,悉封為列侯。」

当初、岑彭と交阯こうし牧の鄧讓とうじょうは親善であり、鄧讓に書状を与えて国家の威徳を陳べる一方、偏将軍の屈充くつじゅうをして江南へ檄文を伝えさせ、詔命を班行させた。こうして、鄧譲と江夏こうか太守の侯登こうとう武陵ぶりょう太守の王堂おうどう長沙ちょうさの相韓福(かんふく)桂陽けいよう太守の張隆ちょうりゅう零陵れいりょう太守の田翕でんきゅう蒼梧そうご太守の杜穆とぼく交恥こうち太守の錫光しゃっこうらが互いに統率し合い、使いを遣って貢献してきたため、悉くが封じられて列侯となった。


交阯には漢の統治がまだ行き届いてない。

士燮の祖先が交阯に逃げてきたのもこの頃。


後漢書任延伝にいう、

「建武初,延上書願乞骸骨,歸拜王庭。詔徵爲九真太守。光武引見,賜馬雜繒,令妻子留洛陽。九真俗以謝獵爲業,不知牛耕,民常告糴交阯,每致困乏。延乃令鑄作田器,教之墾辟」


「初,平帝時,漢中錫光爲交阯太守,教導民夷,漸以禮義,化聲侔於延。王莽末,閉境拒守。建武初,遣使貢獻,封鹽水侯。領南華風,始於二守焉」


光武帝が即位した頃(A.D.25〜)に

引退を願い出た任延じんえんが九真太守。

狩猟で生計を立てており

牛耕について何も知らない民のため

農具を作り、農耕について教えてやった。


当初、前漢の平帝の頃は

漢中の錫光しゃくこうが交阯太守となって

民衆や蛮夷を教導していた。

王莽おうもうの末期には境域が塞がれていたが

建武けんむ年間初期に貢献の使者があった。

交州を中華の風俗に染めたのは

錫光と任延の二守が最初だった。



後漢書南蛮伝にいう、

「光武中興,錫光爲交阯,任延守九眞,於是教其耕稼,製爲冠履,初設媒娉,始知姻娶,建立學校,導之禮義」

「建武十二年,九眞徼外蠻里張遊,率種人慕化內屬,封爲歸漢里君。明年,南越徼外蠻夷獻白雉、白菟。至十六年,交阯女子徵側及其妹徵貳反,攻郡。徵側者,麊泠縣雒將之女也。嫁爲硃珪人詩索妻,甚雄勇。交阯太守蘇定以法繩之,側忿,故反」


光武帝が中興すると

錫光が交阯、任延が九眞を担当し

農耕や嫁取りの文化を伝えたり

学校を建設したりして

教化をおこなった。

帰順を申し出てきたり

貢献してきた蛮族がいた。



建武十六年(40)に

交阯でチュン姉妹の反乱があった。

交阯太守の蘇定が法に則って

逮捕しようとしたら

徴側チュンチャックが怒って反逆したらしい。

馬援ばえんが平定した。


後漢書度尚伝にいう、

「延熹五年,長沙、零陵賊合七八千人,自稱「將軍」,入桂陽、蒼梧、南海、交阯,交阯刺史及蒼梧太守望風逃奔,二郡皆沒」


延熹五年(162)に

長沙・零陵の賊7〜8000人が

将軍を自称して荊州南部から交州へ入った。

交阯刺史・蒼梧太守は逃走し

二郡はいずれも覆没してしまった。


と、治めるの難しそうな土地柄です。


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