一、交阯の士燮
呉書4巻のトリは士燮。
90歳まで生きた中華南方、交州の雄。
劉繇・太史慈は孫策に敗れたけど
士燮は孫権の時代に下された群雄。
といっても、干戈を交えたりせず
歩騭がうまく帰順させた形。
三国志演義だと
交州はほぼスルーされてるので
孫策が死んだ後、孫権が
領土増やしてるように見えない。
1.
士燮字威彥,蒼梧廣信人也。其先本魯國汶陽人,至王莽之亂,避地交州。六世至燮父賜,桓帝時為日南太守。燮少游學京師,事潁川劉子奇,治左氏春秋。察孝廉,補尚書郎,公事免官。父賜喪闋後,舉茂才,除巫令,遷交阯太守。
(訳)
士燮は字を威彦、蒼梧郡広信県の人である。
その祖先は本来、魯国汶陽の人で
王莽の乱に至って交州へ避難していた。
六世代後、士燮の父の士賜が
桓帝の時代に日南太守となった。
士燮は少くして京師へ遊学し
穎川の劉子奇に事えて
左氏春秋を治めた。
孝廉に推挙され、
尚書郎に補されたが
公事で免官となった。
父・士賜の服喪期間が開けた後
茂才に推挙されて巫の令に除され
交阯太守に遷った。
(註釈)
士燮。137年生まれだから
曹操より18歳も上。
劉表でもまだ5歳上。
交州で財を成した士一族のドン。
交州は、
南海、蒼梧、鬱林、合浦、交阯、九真、日南の
七郡から成る、最南の地。
後漢王朝における交阯は
どういう扱いだったのだろう。
後漢書岑彭伝にいう、
「初,彭與交阯牧鄧讓厚善,與讓書陳國家威德,又遣偏將軍屈充移檄江南,班行詔命。於是讓與江夏太守侯登、武陵太守王堂、長沙相韓福、桂陽太守張隆、零陵太守田翕、蒼梧太守杜穆、交恥太守錫光等,相率遣使貢獻,悉封為列侯。」
当初、岑彭と交阯牧の鄧讓は親善であり、鄧讓に書状を与えて国家の威徳を陳べる一方、偏将軍の屈充をして江南へ檄文を伝えさせ、詔命を班行させた。こうして、鄧譲と江夏太守の侯登、武陵太守の王堂、長沙の相韓福、桂陽太守の張隆、零陵太守の田翕、蒼梧太守の杜穆、交恥太守の錫光らが互いに統率し合い、使いを遣って貢献してきたため、悉くが封じられて列侯となった。
交阯には漢の統治がまだ行き届いてない。
士燮の祖先が交阯に逃げてきたのもこの頃。
後漢書任延伝にいう、
「建武初,延上書願乞骸骨,歸拜王庭。詔徵爲九真太守。光武引見,賜馬雜繒,令妻子留洛陽。九真俗以謝獵爲業,不知牛耕,民常告糴交阯,每致困乏。延乃令鑄作田器,教之墾辟」
「初,平帝時,漢中錫光爲交阯太守,教導民夷,漸以禮義,化聲侔於延。王莽末,閉境拒守。建武初,遣使貢獻,封鹽水侯。領南華風,始於二守焉」
光武帝が即位した頃(A.D.25〜)に
引退を願い出た任延が九真太守。
狩猟で生計を立てており
牛耕について何も知らない民のため
農具を作り、農耕について教えてやった。
当初、前漢の平帝の頃は
漢中の錫光が交阯太守となって
民衆や蛮夷を教導していた。
王莽の末期には境域が塞がれていたが
建武年間初期に貢献の使者があった。
交州を中華の風俗に染めたのは
錫光と任延の二守が最初だった。
後漢書南蛮伝にいう、
「光武中興,錫光爲交阯,任延守九眞,於是教其耕稼,製爲冠履,初設媒娉,始知姻娶,建立學校,導之禮義」
「建武十二年,九眞徼外蠻里張遊,率種人慕化內屬,封爲歸漢里君。明年,南越徼外蠻夷獻白雉、白菟。至十六年,交阯女子徵側及其妹徵貳反,攻郡。徵側者,麊泠縣雒將之女也。嫁爲硃珪人詩索妻,甚雄勇。交阯太守蘇定以法繩之,側忿,故反」
光武帝が中興すると
錫光が交阯、任延が九眞を担当し
農耕や嫁取りの文化を伝えたり
学校を建設したりして
教化をおこなった。
帰順を申し出てきたり
貢献してきた蛮族がいた。
建武十六年(40)に
交阯で徴姉妹の反乱があった。
交阯太守の蘇定が法に則って
逮捕しようとしたら
徴側が怒って反逆したらしい。
馬援が平定した。
後漢書度尚伝にいう、
「延熹五年,長沙、零陵賊合七八千人,自稱「將軍」,入桂陽、蒼梧、南海、交阯,交阯刺史及蒼梧太守望風逃奔,二郡皆沒」
延熹五年(162)に
長沙・零陵の賊7〜8000人が
将軍を自称して荊州南部から交州へ入った。
交阯刺史・蒼梧太守は逃走し
二郡はいずれも覆没してしまった。
と、治めるの難しそうな土地柄です。




