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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第四、劉繇伝
405/603

三、仏道を志した拝金主義者

笮融さくゆう伝も付記されている。


中華仏教のルーツを語るには

欠かせない人物??

3.

笮融者,丹楊人。初聚眾數百,往依徐州牧陶謙。謙使督廣陵、彭城運漕,遂放縱擅殺,坐斷三郡委輸以自入。乃大起浮圖祠,以銅為人,黃金塗身,衣以錦采,垂銅槃九重,下為重樓閣道,可容三千餘人。悉課讀佛經,令界內及旁郡人有好佛者聽受道,復其他役以招致之,由此遠近前後至者五千餘人戶。每浴佛,多設酒飯,布席於路,經數十里,民人來觀及就食且萬人,費以巨億計。曹公攻陶謙,徐土騷動,融將男女數萬口,馬三千匹,走廣陵,廣陵太守趙昱待以賓禮。先是,彭城相薛禮為陶謙所逼,屯秣陵。融利廣陵之眾,因酒酣殺昱,放兵大略,因載而去。過殺禮,然後殺皓。

(訳)

笮融は丹楊たんようの人である。


当初、数百の衆を集めて

徐州牧の陶謙とうけんのもとへ往き、依拠した。


陶謙は広陵こうりょう彭城ほうじょうに遣わして

運漕をさせたが、

結局放縦し、ほしいままに人を殺して

坐して三郡の委ねた運輸物資を断ち

自分(の懐)へ入れてしまった。


そこで、大々的に※浮圖祠を建て

(※仏陀を祭祀するほこら)

銅で人形を作り

黄金を身に塗りたくって

錦彩を身に付け、

銅槃を九つ重ねて垂らし、

下には、三千人余りを収容できる

幾重かの楼と閣道を作った。


悉くに仏教の経典を読む事を課し

界隈の内、及び近傍の郡の人に命じて

仏を愛する者には(仏)道を聴受させた。


その他の(労)役を免除して

これを招致したので、

この事に由り遠近、前後に

至る者が五千余人戸にのぼった。


浴仏のたびに

多くの酒や飯が設られ、

路にかれた蓆は数十里を経て

民人のうちで見物及び食事をしに

やって来た者はほとんど万人にのぼり、

費用は巨億を数えた。


曹公が陶謙を攻めて

徐州の地が騒動すると

笮融は男女数万口、馬三千匹を率いて

広陵へ走り、広陵太守の趙昱ちょういく

賓客の礼を以て待遇した。


これより以前、彭城ほうじょう相の薛礼せつれい

陶謙の為に逼迫される所となっており

秣陵ばつりょうに駐屯していた。


笮融は、広陵の多勢に利があると見て

酒宴が酣となった折に趙昱を殺し、

兵を放って大いに略奪を行わせると

そこで(奪ったものを)積載して

立ち去っていった。


途上で薛礼を殺し、然るのちに朱皓しゅこうを殺した。



(註釈)

復に「役を免除する」って意味があるのか。


絵に描いたようなクズ野郎だけど

笮融が中華仏門の祖、

みたいなところあるんだよね。


若い頃の経緯一切不明。

多分頼れる親族はいなかった。


笮融がはじめに陶謙に身を寄せたのは

同じ丹楊の出身だからだろう。


劉備と張飛、呂布と張楊、

関羽と徐晃、劉繇と太史慈など、

広い中国に於ける同郷の繋がりは

我々の想像以上に重要視されてる。


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