註二・註三、裏切らない許劭/裏切る笮融
註2.
袁宏汉纪曰:刘繇将奔会稽,许子将曰:“会稽富实,策之所贪,且穷在海隅,不可往也。不如豫章,北连豫壤,西接荆州。若收合吏民,遣使贡献,与曹兗州相闻,虽有袁公路隔在其间,其人豺狼,不能久也。足下受王命,孟德、景升必相救济。”繇从之。
(訳)
袁宏の漢記にいう、
劉繇が会稽へ奔ろうとすると
許子将(許劭)が言った。
「会稽が富が充実しており
孫策の貪る所であります。
且つ、窮みは海の側に在り
往くべきではございませぬ。
豫章は、北は豫州の土壌に連なり
西は荊州と接しております。
もし吏人や民衆を糾合し
使いを遣って貢献し
曹兗州(曹操)と互いに
連絡を与え合えば、
袁公路(袁術)がその間を
隔てていると雖も、
彼の人となりは豺狼であり
久しくは続きますまい。
足下は王命を受けておられます、
孟徳(曹操)、景升(劉表)が
必ずや救済してくれましょう」
劉繇はこれに从った。
(註釈)
荀彧伝での荀彧のセリフ。
「呂布を破り、然るのちに
南方の揚州と結んで
共に袁術を討ち…………」
李傕の意向か献帝の意向かはわからんが
劉繇は朝廷の任命した揚州刺史だから
曹操(荀彧)も当然味方と見做している。
会稽郡には劉繇と同時期に
県長になった王朗がいるが、
海に面していて、逃げ場がない。
袁術と孫策に囲まれたら
劉繇には切り抜けられないだろう。
豫章郡は揚州の西側。
会稽よりはまだ
曹操らの救援が期待できる。
孫策や袁術に対抗するには
豫章に逃げた方がいい。
笮融が裏切らなければ劉繇は
もう少しいけたんじゃないかな。
でも結局病死しちゃうんだろうか。
豫章郡も会稽郡も、伯父の劉寵が
太守を務めてたところだ。
受け入れてもらえる土壌はあった。
許劭は太史慈と違って
最後まで劉繇に付き従ったが
豫章郡で病没してしまったようだ。
註3.
献帝春秋曰:是岁,繇屯彭泽,又使融助皓讨刘表所用太守诸葛玄。许子将谓繇曰:“笮融出军,不顾(命)名义者也。硃文明善推诚以信人,宜使密防之。”融到,果诈杀皓,代领郡事。
(訳)
献帝春秋にいう、
この年、劉繇は彭澤に駐屯する一方で
笮融に朱皓の助勢をさせて
劉表の任用した太守の諸葛玄を討伐した。
許子将(許劭)が言った。
「笮融が出陣しましたが、
名義など顧みる者ではございませんぞ。
朱文明(朱皓)は
善く誠を推し進める事で
人を信頼いたしますゆえ
彼を防ぐよう密かに伝える
べきかと存じます」
笮融が到着すると、果たせるかな
詐術によって朱皓を殺し
成り代わって郡の事業の統制した。
(註釈)
「劉表が諸葛玄を用いた」とあるけど
諸葛亮伝には
「亮早孤,從父玄為袁術所署豫章太守,玄將亮及亮弟均之官」
とあり、諸葛玄を豫章太守に署したのは袁術。
蜀人の陳寿が書いてるんだし
ここは間違わないだろう。
裴松之先生も突っ込んでるけど
献帝春秋はいつも適当な事書いてるから
信用できない。
諸葛亮が荊州に長くいたもんだから
劉表から任命されたものと
思ってしまったんじゃ。
「襄陽記」によると、諸葛亮は
劉表の親戚に当たるらしいから
割とあり得ちゃうのかもしれないけど
陳寿を信じよう。
個人的な劉繇評。
戦闘 ★★★★★ 5
袁術や孫策に対しては
樊能たちに任せてる感じで
戦闘の記録が最後の笮融戦のみ。
前半生は実戦経験なさげだし、
勇壮であったり指揮が上手いなら
袁術にビビらないだろうし
戦闘部下任せにしきりじゃないはず。
笮融の時は自分でやらざるを
得ない状況まで追い込まれてたか。
笮融自体は優秀な指揮官という
わけでもないし、原点のまま。
孫策が出張るまで
袁術はかなり手こずってる風だったけど
劉繇が強いのか袁術が弱いのか
よくわからなくなってきた。
孫策がいなかったものと
仮定してみると、
あのまま粘ってれば
曹操と連携した上で
袁術は倒せてた????
戦略 ★★★★★ 5
袁術と戦わざるを得なかったのは
長安政権(李傕たち)から
揚州の統治丸投げされたからなのよね。
劉正礼は静かに暮らしたい、だった筈が。
会稽じゃなくて豫章に逃げたのは
賢明だった、のかな?
原点から動くほどじゃない。
内政 ★★★★★★ 6
下邑県の長をつとめ、
済南で中常侍の身内の不明を糾弾した。
叔父と兄の功績込みだろうけど
揚州刺史を任されるくらいには
手腕があるものと評価されていただろう。
(李傕たちに)
でも後任の後任の劉馥には全然及ばないライン。
人格 ★★★★★★ 6
孝廉に推挙された。
賊から人質を奪い返す度胸がある。
陶丘洪からの評価が高い。
太史慈と笮融には逃げられたけど
許劭は劉繇を見捨てなかった。
全体的にパッとしない……。
呉書四に立伝されてる群雄の中で
劉繇だけ降伏を選ばなかった、
選ぶ前に死んだ、が正しいんだろけど。
揚州の統治はやはり
難しすぎるんだと思う。
むしろ、行き当たりばったりの
人事にしては、相当頑張ってた
と言っていいんじゃなかろうか。
荀彧の見出した
韋康や厳象と似た印象で、
評判の高い人物が
僻地の統治に当たったけど
制御しきれなかった例の一つって感じ。
問題は彼が、呉書の四巻に
伝を立てられてる事。
三国志、呉書は
一巻に孫堅と孫策
二巻に孫権
三巻に孫亮、孫休、孫皓
ときて、
四巻の頭に劉繇が来る。
魏書では、このポジションは
董卓・袁紹・袁術・劉表だ。
劉繇よりスケールが二枚は上の連中が並ぶ。
呉の歴史を語る時、
その開国の戦で倒された群雄──
という位置付けなんだろうが、
魏書と蜀書は皇帝の記述のあとは
皇后の伝記を載せている。
呉書だけ構成がちがうのは、
陳寿が言外に仄めかしている
魏≧蜀>>>呉
というアピールの一環なんだろう。
要は、陳寿から当て馬に選ばれたのだ。
元になったという
韋昭の「呉書」だと、
絶対に順番違ってると思う。
曹操→武帝
曹丕→文帝
曹叡→明帝
劉備→先主
劉禅→後主
孫堅→孫堅
孫策→孫策
孫権→孫権
と、呉だけ名指ししてるし、
死んだ時も呉のリーダーは
「射殺された」「卒した」
と、あまりリスペクトされてない感じ。
孫皓に至っては「死んだ」だし
ほぼ一般人扱い。
劉繇と太史慈があんまし
すごそうに見えないのも
陳寿の仕込みのうち、なのかもね。




