二、叔父を奪還、孫策と交戦
2.
繇年十九,從父韙為賊所劫質。繇篡取以歸,由是顯名。舉孝廉,為郎中,除下邑長。時郡守以貴戚托之,遂棄官去。州辟部濟南,濟南相中常侍子,貪穢不循,繇奏免之。平原陶丘洪薦繇,欲令舉茂才。刺吏曰:「前年舉公山。奈何復舉正禮乎?」洪曰:「若明使君用公山於前,擢正禮於後,所謂御二龍於長塗,騁騏驥於千里,不亦可乎!」會辟司空掾,除侍御史,不就。避亂淮浦,詔書以為揚州刺史。時袁術在淮南,繇畏憚,不敢之州。欲南渡江,吳景,孫賁迎置曲阿。術圖為僭逆,攻沒諸郡縣。繇遣樊能、張英屯江邊以拒之。以景、賁術所授用,乃迫逐使去。於是術乃自置揚州刺史,與景、賁並力攻英、能等,歲余不下。漢命加繇為牧,振武將軍,眾數萬人。孫策東渡,破英、能等。繇奔丹徒,遂泝江南保豫章,駐彭澤。笮融先至。〈笮音壮力反。〉殺太守朱皓,入居郡中。繇進討融,為融所破,更復招合屬縣,攻破融,融敗走入山。為民所殺。繇尋病卒,時年四十二。
(訳)
劉繇が十九歳の時、
従父の劉韙が賊に脅されて
人質となってしまった。
劉繇が(従父)を奪い取って
戻ってくると、この事に由り
名声が顕著なものとなった。
孝廉に推挙されて郎中となり
下邑の長に除された。
当時の郡守は
(劉繇が)貴人の親戚である事から
これに寄託しようとしており、
かくて、官職を棄てて立ち去った。
州の召辟で済南を統治した。
済南の相は中常侍の子であったが
貪汚にして不順(循)であり、
劉繇は上奏して彼を罷免した。
平原の陶丘洪が劉繇を推薦して
茂才に推挙させようとしたが、刺史は言った。
「前年に公山(劉繇の兄、劉岱)を
推挙しているのに、どうして今度も
正礼(劉繇)を推挙できよう」
陶丘洪は言った。
「もし明使君が先に公山を用い
後に正礼を抜擢なさるのであれば
所謂、二龍を長き路に御して
騏驥を千里に駆けさせるというものです。
なんともよき事ではありませんか」
ちょうど召辟が司空掾からあり、
侍御史に除されたが、就任しなかった。
戦乱を淮浦に避けていたところ
詔書によって揚州刺史となった。
当時は袁術が淮南に在り、
劉繇が畏れ憚って
敢えて揚州へ之けずにいた。
南へ長江を渡ろうとすると
呉景・孫賁が曲阿にて接待した。
袁術はお上への叛逆を目論むと
諸々の郡県を攻め落としていった。
劉繇は樊能・張英を
長江沿岸に駐屯させてこれを拒いだ。
呉景・孫賁は袁術に任用されており
かくて駆逐し、強制退去させた。
こうして袁術は自ら揚州刺史を置き
呉景・孫賁と力を合わせて
樊能・張英らを攻めたが、
一年余りしても下せなかった。
漢は命を加えて
劉繇を州牧・振武将軍とし、
衆人は数万人となった。
孫策が東へと渡って
張英・樊能らを破った。
劉繇は丹都へ奔走し、
かくて江南を遡って
豫章を保ち、彭澤へ駐留した。
※笮融が先に至っており
(※笮の音は壮力の反切である)
太守の朱皓を殺して郡中へと入居した。
劉繇は進撃して笮融を討伐したが
笮融の為に破られる所となり、
新たに再び属県を糾合して
笮融を攻め破った。
敗走した笮融は山へ入ったが
民の為に殺害される所となった。
劉繇はやがて病で卒した、
時に四十二歳であった。
(註釈)
劉繇は曹操や孫堅と同年代。
19歳だと170年代半ばごろか。
人質を奪い返す豪胆さを見せて
その名声は響き渡った。
察挙科目の一つである「秀才」は
光武帝の諱の「秀」を避けて
「茂才」と改められた。
劉繇が長官を務めた下邑は
豫州梁国の属県。
小さい県だと「県長」で
大きい県だと「県令」になるんだったかな。
臧洪伝にいう、
当時は「三署」の郎から
県の長官を選ぶのが通例だった。
劉繇、王朗、趙昱、臧洪が
県の長官になった。
王朗は会稽太守、魏の三公。
孫策快進撃の被害者の一人で、
演義では諸葛亮の手紙読んで
憤死するソンな役回り。
趙昱は陶謙の傘下で徐州を治めた。
笮融に親切にしたのに
逆に殺されてしまった人だ。
臧洪は張邈の弟、張超の部下。
反董卓連合の主導者だが
演義では存在そのものを消された。
劉備の仁者キャラと被るからだろうね。
時期が微妙に不明瞭だけど
この頃の豫州刺史はたぶん孔伷。
当時の梁国の長官って誰だろう。
陶丘洪は、華歆と同郷で
(※三国志、華歆伝)
孔融、陳留の辺譲とともに名を知られた。
(※三国志、蔡邕伝の引く続漢書)
また、荀攸伝の註にも登場。
袁術が何顒を非難したときに
反論してたのが陶丘洪だ。
何顒ら名士が袁紹と仲良いから
プライドの高い袁術は面白くないんだろう。
その陶丘洪が、
劉繇を茂才に推挙するように
直訴してる「青州刺史」って、
太史慈が「上奏文ビリビリ事件」で
怒らせてしまった青州刺史と
同一人物だろうか。
「臧洪伝」にいう、
公孫瓚と袁紹が交戦している頃に
ちょうど青州刺史の焦和が亡くなり
袁紹は臧洪に青州を治めさせた。
公孫瓚側が立てた青州刺史が田楷のようだ。
劉繇伝に出てくる「刺史」と
太史慈伝に出てくる「州家」は
焦和の事なんでしょうか。
後漢書臧洪伝にも焦和が登場。
前刺史焦和好立虛譽,能清談。時黃巾群盜處處飆起,而青部殷實,軍革尚眾。和欲與諸同盟西赴京師,未及得行,而賊已屠城邑。和不理戎警,但坐列巫史,禜禱群神。又恐賊乘凍而過,命多作陷冰丸,以投于河。眾遂潰散,和亦病卒。洪收撫離叛,百姓復安。
これ見た感じだと、
虚名が目立って清談を好む男。
青州は肥沃で擁する兵も多く
焦和も西進して※諸侯に加わり
洛陽を目指そうとしたが、
(※反董卓連合)
その隙に乗じて
青州黄巾に城邑を落とされてしまう。
焦和は取り締まる事ができず
神に祈りを捧げていた。
黄巾が氷の上(?)に乗って
通過する事を恐れて
「陥冰丸」を河に投げ入れて阻止。
この「陥冰丸」というのは
融雪剤みたいなものかな?
焦和が病死すると
後任の臧洪が人々を安撫した。
黄琬と焦和の間にあと一人か二人
青州刺史がいそうなんだけど、誰だろう?
中原で戦乱が起こると
徐州は下邳国の淮浦県に
避難していた劉繇。
青州黄巾の被害に遭って
陶謙のもとに逃げたとかかな。
やがて揚州刺史に任命されるが
袁術が怖くて赴任できない。
袁術は演義と江表伝のせいで
イメージ悪いけど、
当時の最大派閥の一角だからね。
いくら爪牙の孫堅を失い
南陽を逐電した後とはいえ、
劉繇がビビって
妄りに動けないのも無理ない。
赴任当初の劉繇はとりあえず様子見。
袁術配下の呉景と孫賁も
当初は歓迎ムードだったけど、
袁術が揚州支配に動き出すと
ヤバいと思い、迎撃に出た。
呉景と孫賁が追い出されると
本格的に袁術VS劉繇の流れになるが、
劉繇組が案外粘る。
そこへ孫策が出張ってきて
逆転を許してしまった。
孫策の戦いはたったの八字で終了。
陳寿の文はこれだからたまらん。
かくて丹徒→豫章へ逃げた劉繇だが、
諸葛亮の叔父の諸葛玄が
袁術から豫章太守に任命させられてる。
朝廷が遣わした豫章太守が朱皓、
袁術が遣わした豫章太守が諸葛玄、
そこに、孫策に駆逐された
劉繇と笮融がやってきて仲違い、
結局全員死んでしまった。
この時の豫章、相当カオスだった筈。
諸葛亮は、曹操が徐州を荒らしたから
南方へ避難したんだと思ってたけど
叔父さんについてっただけって
可能性もある。
汝南袁氏と瑯琊諸葛氏は
漢の名門同士でコネがあったんかな。
諸葛玄が揚州へ移った時期は
袁術が南陽から寿春に
逃げてきた後なのは確定だけど、
豫章太守への赴任と
曹操の徐州侵攻とでどっちが先なのか
断定することができない。
叔父が死んだ後、諸葛亮は荊州に行った。
この頃、10代後半と思われるが
中原と江南は係争の地になると
判断したのだろうか?
弟・諸葛亮は荊州へ避難する一方で
兄・諸葛瑾は揚州へ向かった。
この兄弟って一緒に行動してないのかな?
また後で改めて考察します。




