一・註一・註二、劉繇・劉岱・劉寵
孫策に負け、太史慈に見捨てられ、
笮融に裏切られ、いいとこないまま
死んでしまった劉繇伝。
(この見出しで読む気失せるぞ)
太史慈、士燮とともに
呉書の四巻に載ってます。
どんな人なのでしょう。
1.
劉繇,字正禮,東萊牟平人也。齊孝王少子封牟平侯,子孫家焉。繇伯父寵,為漢太尉。繇兄岱,字公山,歷位侍中,兗州刺史。
(訳)
劉繇は字を正礼、東萊郡牟平県の人である。
斉の孝王の少子が牟平侯に封じられ
子孫は(牟平を)家居とした。
劉繇の伯父の劉寵は漢の大尉となった。
劉繇の兄、劉岱は字を公山
侍中、兗州刺史の位を歴任した。
(註釈)
漢の宗族の上に
身内が大尉と州刺史って
もう、超エリートじゃないか。
やっぱ、本来なら太史慈が
対等に話せるような人じゃない。
年も10くらい上だし、
いくら同郷人だっつっても…
兄・劉岱は見覚えある人も多いはず。
演義の5回で十七諸侯の中に
兗州刺史として名を連ねてます。
「後漢書」劉寵伝にいう、
劉岱は董卓の入洛に
侍中として従い、
転出して兗州刺史になった。
演義同様、正史でも
反董卓連合に参加してる。
演義の第6回では、橋瑁と
仲違いをして、彼を殺している。
正史でも流れは大体同じ。
初平3年(192)に
兗州に青州黄巾が攻め入ってきた際、
鮑信の諌めにも従わず迎撃に出て、
劉岱は殺された。
いいところがまるでないなぁ……。
註1.
续汉书曰:繇祖父本,师受经传,博学群书,号为通儒。举贤良方正,为般长,卒官。宠字祖荣,受父业,以经明行修,举孝廉,光禄(大夫)察四行,除东平陵令。视事数年,以母病弃官,百姓士民攀舆拒轮,充塞道路,车不得前,乃止亭,轻服潜遁,归脩供养。后辟大将军府,稍迁会稽太守,正身率下,郡中大治。徵入为将作大匠。山阴县民去治数十里有若邪中在山谷间,五六老翁年皆七八十,闻宠迁,相率共送宠,人赍百钱。宠见,劳来曰:“父老何乃自苦远来!”皆对曰:“山谷鄙老,生未尝至郡县。他时吏发求不去,民间或夜不绝狗吠,竟夕民不得安。自明府下车以来,狗不夜吠,吏稀至民间,年老遭值圣化,今闻当见弃去,故戮力来送。”宠谢之,为选受一大钱,故会稽号宠为取一钱太守。其清如是。宠前后历二郡,八居九列,四登三事。家不藏贿,无重宝器,恆菲饮食,薄衣服,弊车羸马,号为窭陋。三去相位,辄归本土。往来京师,常下道脱骖过,人莫知焉。宠尝欲止亭,亭吏止之曰:“整顿传舍,以待刘公,不可得止。”宠因过去。其廉俭皆此类也。以老病卒于家。
(訳)
続漢書にいう、
劉繇の祖父の劉本は
師から経書の解釈を受け
博く様々な書物を学び
「通儒」と号された。
賢良・方正に推挙され
般の(県)長となったが
在官中に卒してしまった。
劉宠(劉寵)は字を祖栄、
父の事業を受け継いで
経書に明るく、品行を修めていた事で
孝廉に推挙され、
光禄大夫に四行を察挙され
東平の陵の令に除された。
事業を視ること数年で
母の病を以て官職を棄てたが、
百姓士民が輿に縋ってきて
車輪を止め、道路を充塞してしまった。
車が前進できなくなり、
かくて亭に止まると
軽装で密かに遁走し、
(母の元へ)帰って孝養を修めた。
その後、大将軍府に召辟され
ようように会稽太守に遷った。
身を正して下々を率先したため
郡中は大いに治まった。
徵されて(中央に)入り
将作大匠となると
山陰県の民で、治所から数十里離れた
若邪の中の山谷の間にあった
五、六人の老翁は、
全員七、八十歳であったが、
劉寵が転移すると聞いて互いに連れ添い
共に劉寵を見送りに来て
各人が百銭を贈与した。
劉寵は彼らに見えると
遠来してきた事を労って言った。
「ご父老がたは、どうして
かくも御自らを苦しめられてまで
(ご老体に鞭を打ってまで)
遠方へお越しくださったのです?」
全員が対して言った。
「(我々どもは)
山谷の辺鄙に住む年寄りですが
生まれてより、いまだかつて
郡県に参った事などはございません。
昔日はお役人が
徴発を要求して立ち去らず、
民間では、夜に狗の咆哮が
絶えぬ事もございまして、
一晩中、民は安心する事が
かないませんでした。
明府(太守劉寵)どのが
車を下りて(会稽に着任して)以来
狗が夜間に吠える事はなくなり
吏人が民間に至る事も稀になりました。
年老いて神聖なるご教化に巡り会い、
今、まさに(官職を)棄て去られようと
しておられると聞いたがために
戮力して(力を合わせ)
見送りに参ったのです」
劉寵はこれに謝礼し、
彼らの為に大銭一つだけを
選んで受け取った。
故に、会稽では劉寵の事を
「一銭取りの太守」と号した。
彼の清純さは、かくの如くであった。
劉寵は前後に二郡を歴任し、
八度九列(九卿)に居し、
四度三事(三公)に登った。
家には賂を蓄えず、
宝物を珍重する事もなく
恒に粗末な物を飲食し、
質素な服を身に付けていて
車はくたびれ、馬は痩せ衰えており、
「※窭陋」と号されていた。
(※ボロ屋の倹約家? 的な意味か)
三度宰相の位を去り、
その都度本土へ帰ってしまった。
京師を往来する際は、常に
道をどいて
人は彼である事がわからなかった。
劉寵がかつて亭に
止(泊)まろうとした時
亭の役人がこれを制止して言った。
「宿舎を整頓しているのは
劉公を待遇する為です、
止める事はできません」
劉寵はそこで過ぎ去っていった。
彼が清廉で倹しき事は
みな、この類であった。
老病により、家で卒した。
註2.
续汉书曰:繇父舆,一名方,山阳太守。岱、繇皆有隽才。英雄记称岱孝悌仁恕,以虚己受人。
(訳)
続漢書にいう、
劉繇の父の劉輿は一名を方といい
山陽太守であった。
劉岱と劉繇はいずれも俊才を有していた。
英雄記では、
劉岱が※孝悌にして仁恕であり、
(父母に孝養をつくし
年長者を敬い、思いやりがある)
己を虚しくして人を受け入れた
と称えている。
(註釈)
続漢書の著者の司馬彪は
いずれ晋書で触れます。
劉繇の伯父、劉寵の事績。
范曄の「後漢書」にも列伝がある。
続漢書だと字が祖栄で、父親は劉本
後漢書だと字が栄祖で、父親は劉丕だ。
済南郡、会稽郡に赴任。
「後漢書」では、豫章太守を経て
161年に黄瓊に代わって司空になったが
天候不順?で免官。
168年に王暢に代わって再度司空に
頻りに司徒、大尉に遷る。
(王暢は確か王粲伝の註で出てきたよね)
会稽の辺鄙な山地に居住する
じいさん達にも慕われ、
会稽を離れる時、餞別の銭を持参して
見送りに来てくれた。
全く受け取らないのも
彼らの心意気に反すると考えたか
劉寵は、大銭一枚だけ受け取った。
故に「一銭取りの太守」。
なかなかイカした逸話です。
超絶倹約家であり、
予約してたホテル行っても
ホテルマンが本人だと気付かないくらい
服装が質素だったもよう。
「号为窭陋」は筑摩訳だと
「じじむささで評判がある」
生活切り詰めすぎマン、
的な意味合いだと思う。
太守2回、九卿8回、三公4回は
ハンパじゃなさすぎる。
しかも会稽って、数ある郡の中でも
トップクラスに広かったような。
豫章・会稽(どっちも揚州)で
評判が良かった統治者の
甥(劉繇)なら、
揚州刺史抜擢も納得すぎる人選だ。
・劉寵評価
戦闘 ★★★★★ 5
戦略 ★★★★★ 5
内政 ★★★★★★★★ 8
人格 ★★★★★★★ 7
紛らわしいけど、
後漢書で袁術に謀殺された
陳王の劉寵とは別人だよ。




