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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第四、太史慈伝
400/603

五・六、対劉盤/美髯の神射、当に帰るべし

5.

劉表從子磐,驍勇,數為寇於艾、西安諸縣。策於是分海昏、建昌左右六縣,以慈為建昌都尉,治海昏,并督諸將拒磐。磐絕跡不復為寇。


(訳)

劉表の従子の劉磐りゅうばんは驍勇で

幾度かがい西安せいあんといった諸県で

侵略を為していた。


孫策はそこで海昏かいこん建昌けんしょう

左右六県を分割し、

太史慈を建昌都尉とする事で

海昏を治めさせるとともに

諸将を監督させて、劉磐を拒いだ。


劉磐は痕跡を絶ち

二度と侵攻してこなくなった。


(註釈)

見よ、この本文の簡潔さ!


劉磐の名前が出てくるのは

太史慈伝と黄忠伝の

たった2回だけです。

劉表の伝にすら出てこず

彼の実力がいまいち不明。


このあと、太史慈の弓描写が出てきます。


黄忠の回でも話しましたが、

演義の作者がここ読んで

弓得意な設定を

黄忠に入れたんじゃないかと。


劉磐がらみで、

太史慈の弓取り設定を

黄忠と混同しちまったとかね。

彭羕(ほうよう)張松ちょうしょうの字を

混同しちゃった感じのノリで


6.

慈長七尺七寸,美鬚髯,猿臂善射,弦不虛發。嘗從策討麻保賊,賊於屯裏緣樓上行詈,以手持樓棼,慈引弓射之,矢貫手著棼,圍外萬人莫不稱善。其妙如此。曹公聞其名,遺慈書,以篋封之,發省無所道,而但貯當歸。孫權統事,以慈能制磐,遂委南方之事。年四十一,建安十一年卒。子享,官至越騎校尉。


(訳)

太史慈の身長は※七尺七寸、

鬚髯が美しく、

猿のように(長い)臂で

弓矢が得意であり、

弦が虚しく発される事はなかった。

(百発百中であった)


(※後漢基準だと177センチ、

魏晋基準だと186センチ)


嘗て孫策に従って麻保の賊を討伐した際、

賊が屯所の裏にある

櫓の上に縁って罵倒を行い、

手で櫓のむなぎを持っていたが、

太史慈は弓を引いてこれを射つと

矢が手を貫いて棼に繋ぎとめた。

囲みの外の万人に

称賛せぬ者はなかった。


その(弓の技術の)精妙さは

かくの如くであった。


曹公はその名声を聞いて

太史慈に書状を遣わした。


はこに封がしてあったが

開けて、省みてみても

何も書いておらず、

ただ「※当帰」だけが入っていた。


(※薬草)


孫権が事業を統べるようになると

太史慈は劉磐を

制する能力がある事から

かくて南方の事を委ねられた。


四十一歳で、建安十一年(206)に卒した。


子の太史享たいしきょう

官職は、越騎校尉えっきこういまで至った。


(註釈)

猿臂善射,弦不虛發


ってハッキリ書いてあるのに

黄忠にこの設定持ってかれたから

たまらないだろうな……。



曹操の謎かけがおもしろい。


箱の中には「当帰」という

薬草だけが入っており、

暗に「まさに帰るべし」で

「俺の部下にならないか」と言ってる。


41で亡くなったのは王粲と同じ。

呉書に、今際の際の

太史慈の言葉が載っています。


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