註二十一前、曹丕と呉質
註21-1.
魏略曰:質字季重,以才學通博,爲五官將及諸侯所禮愛;質亦善處其兄弟之間,若前世樓君卿之游五侯矣。及河北平定,五官將爲世子,質與劉楨等並在坐席。楨坐譴之際,質出爲朝歌長,後遷元城令。其後大將軍西征,太子南在孟津小城,與質書曰:「季重無恙!途路雖局,官守有限,願言之懷,良不可任。足下所治僻左,書問致簡,益用增勞。每念昔日南皮之游,誠不可忘。旣妙思六經,逍遙百氏,彈棊間設,終以博弈,高談娛心,哀箏順耳。馳騖北塲,旅食南館,浮甘瓜於清泉,沈朱李於寒水。皦日旣沒,繼以朗月,同乘並載,以游後園,輿輪徐動,賔從無聲,清風夜起,悲笳微吟,樂往哀來,淒然傷懷。余顧而言,茲樂難常,足下之徒,咸以爲然。今果分別,各在一方。元瑜長逝,化爲異物,每一念至,何時可言?方今蕤賔紀辰,景風扇物,天氣和暖,衆果具繁。時駕而游,北遵河曲,從者鳴笳以啟路,文學託乘於後車,節同時異,物是人非,我勞如何!今遣騎到鄴,故使枉道相過。行矣,自愛!」二十三年,太子又與質書曰:「歳月易得,別來行復四年。三年不見,東山猶歎其遠,況乃過之,思何可支?雖書疏往反,未足解其勞結。昔年疾疫,親故多離其災,徐、陳、應、劉,一時俱逝,痛何可言邪!昔日游處,行則同輿,止則接席,何嘗須臾相失!每至觴酌流行,絲竹並奏,酒酣耳熱,仰而賦詩。當此之時,忽然不自知樂也。謂百年己分,長共相保,何圖數年之間,零落略盡,言之傷心。頃撰其遺文,都爲一集。觀其姓名,已爲鬼錄,追思昔游,猶在心目,而此諸子化爲糞壤,可復道哉!觀古今文人,類不護細行,鮮能以名節自立。而偉長獨懷文抱質,恬淡寡欲,有箕山之志,可謂彬彬君子矣。著《中論》二十餘篇,成一家之業,辭義典雅,足傳于後,此子爲不朽矣。德璉常斐然有述作意,才學足以著書,美志不遂,良可痛惜。間歷觀諸子之文,對之抆淚,旣痛逝者,行自念也。孔璋章表殊健,微爲繁富。公幹有逸氣,但未遒耳,至其五言詩,妙絶當時。元瑜書記翩翩,致足樂也。仲宣獨自善於辭賦,惜其體弱,不足起其文,至於所善,古人無以遠過也。昔伯牙絶絃於鍾期,仲尼覆醢於子路,愍知音之難遇,傷門人之莫逮也。諸子但爲未及古人,自一時之儁也,今之存者已不逮矣。後生可畏,來者難誣,然吾與足下不及見也。行年已長大,所懷萬端,時有所慮,至乃通夕不瞑。何時復類昔日!已成老翁,但未白頭耳。光武言『年已三十,在軍十年,所更非一』,吾德雖不及,年與之齊。以犬羊之質,服虎豹之文,無衆星之明,假日月之光,動見觀瞻,何時易邪?恐永不復得爲昔日游也。少壯真當努力,年一過往,何可攀援?古人思秉燭夜游,良有以也。頃何以自娛?頗復有所造述不?東望於邑,裁書叙心。」
(訳)
魏略にいう、呉質は字を季重、
才学によって広くに通暁し、
五官将(曹丕)及び
諸侯から礼遇、信愛された。
呉質は一方でその兄弟(曹丕や曹植)間で
善処し、あたかも前代の樓君卿が
五侯の間を遊泳するが若くであった。
河北が平定されるに及んで
五官将が世子となると、
呉質と劉楨らは揃って座席に在った。
劉楨が譴責された際に
呉質は転出して朝歌の長となり
その後、元城の令に遷った。
その後、大将軍が西征した時
太子は南のかた孟津の小城に在り、
呉質に書状を与えて言った。
「季重よ、恙無きや。
途路は近いと雖も官守には制限が有る。
心の内を言葉にする事を願い
とても耐えられなくなってしまった。
足下の治める場所は僻左であり
音信が至る事も疎かであるから
ますます心労が増していく。
いつも昔日に南皮で遊んだ事を念い
まこと忘れられずにいる。
六経について深く考え、
百氏を逍遙し、
その狭間に弾棊を設け、
結局は博奕までして、
高らかな談話に心を娯ませ
哀しげな箏の音色に耳を順わせた。
北の塲へ馬を駆け、
南の館で旅食して、
甘瓜を清浄なる泉に浮かべ、
朱い李を冷たい水に沈めた。
皦い日輪が没した後は
明朗な月が継いで
同乗し揃って車に乗り
後園を遊行した。
車輪を徐に動かし
賓客侍従は声もなく
清らかな風が夜に起こり、
悲しげな笳、微かな吟誦。
歓楽過ぎ往かば哀惜が去来し
凄然と胸の内を痛ませる。
余は回顧し、この楽しみは
尋常には得難きものだと言ったが
足下らも咸その通りだと述べた。
今果たして分かたれ、
各々が一方に在る。
元瑜(阮瑀)は長逝し、異物と化した。
いつも一重に追想するに至るが
いつ言葉を交わせるだろうか。
まさに今は蕤賔(旧暦の5月)の辰の時期、
景風は万物を煽り
天気は和やかで暖かく
色々な果物が具に繁衍している。
時に車駕にて遊びに行き、
北は河の湾曲に従い、
従者は笳を鳴らして路を啓き
文学は車の後方に添乗している。
節は同様でも時は異なり
物は是であるが、人は非である。
我は、心労を如何にすればよい。
今、騎馬を鄴へと到らせたので
道をまげて(寄り道)通過させよう。
(必ず)行くぞ。ご自愛されよ」
二十三年(218)、
太子は再度呉質に書状を与えて述べた。
「歳月は変わり得る。
別れてからもう四年が経過してしまった。
三年見えねば、
東山もなおその遠きを慨嘆する。
況してや、こうしてそれを過ぎれば
思慕の情にどうして堪えられよう。
書疏の往来といえど
この懊悩を解きほぐすには足りぬ。
昔年の病疾により
縁故知人の多くが災難に見舞われ
徐幹、陳琳、応瑒、劉楨が
一度にみな逝去してしまった。
痛惜するに何を言えばよいというのだ!
昔日に遊んだ際には
行けば則ち同乗し
止まれば則ち席を隣接させていたのに
どうして須臾にして
失われてしまったのだろう。
いつも觴酌(酒を酌み交わす)し
(酒が)行き渡るに至りて
管弦楽器が一斉に奏でられ、
酒が酣になりて耳が熱くなり
仰天して詩賦を詠んだ。
この時に当たりては忽然として
安楽を自覚出来なかった。
百年を己の分として
長きを共に保つものと考えていたが
数年の間に殆どみなが零落するなど
どうして想像し得ようか。
この事を口にするに心が傷む。
近頃、その遺文を撰録してまとめ
一つの文集を作った。
その姓名を観るに
既に鬼籍に入っているが、
かつての遊山を追想するに
なお心や目に残っている。
しかるに彼ら諸子は
糞壤と化してしまい、
また語る事ができようか。
古今の文人を観るに、
おおよそ細かい作法を護らず
名節を以て自立できた者は鮮ない。
しかるに、偉長(徐幹)だけは
文学の才を懐きながら質朴も備え、
恬淡にして寡欲であり、
箕山の志を有していた。
彬彬たる君子と謂うべきだろう。
中論二十余篇を著して
ひとかどの仕事を成したが
その辞義は典雅であり
後世に伝えるに足るもので、
かの子は不朽である。
徳璉(応瑒)は
斐然として術作の意を有しており
その才学は書を著すに足るものだが
美しい志を全うできなかった。
実に痛惜すべきである。
合間に諸子の文書を暦観し
これらに対面して抆い
逝去した者を痛み
行きて自ら念うのである。
孔璋(陳琳)の章や表は
殊更壮健であるが、いささか繁雑である。
公幹(劉楨)は放逸なる気質を有しているが、
ただ遒勁(文章が力強い)でないだけで
その五言詩に至っては
精妙さにおいて当世に冠絶している。
元瑜(阮瑀)の書・記は翩翩として
楽しむに足りるものである。
仲宣(王粲)は獨り
辞・賦を善くしていたが
惜しむらくはその体が貧弱な事で
その文章には奮い起つような風情がない。
善い所であれば、
古人とそうはかけ離れておらぬ。
昔、伯牙は鍾子期の
死に於いて弦を絶ち、
仲尼(孔子)は子路の
死に於いて醢を覆した。
音楽を知る者に遇う難しさを痛み、
門人に及ばざる事を傷んだのである。
諸子はただ
古人に及ばぬというだけで
一時代の俊傑であり、
今健在である者はやはり及ばない。
後生(若者)は畏れむべきであり
未来の者は蔑ろにし難いものだが
吾と足下は見るに及ばぬであろう。
行く歳は已に長大にして
万端の思いを胸に抱いている。
時に憂慮する所が有れば
夜通し目を瞑れぬ程である。
いつの時か昔日の如くに
戻れるだろうか。
已に老翁となり、ただ
頭が白くなっていないにすぎぬ。
光武帝は言われた。
『年已に三十、軍に在る事十年、
改める所は通り一遍でない』
吾は徳に関しては
(光武帝に)及ばないと雖も
年齢は彼の方と等しい。
犬羊の資質を以て
虎豹の紋様を身につけ
星々の明るさも無いのに
日月の光と偽っている。
行動を観察され、
いつ変わる事があろう?
恐らくは昔日のように遊べる事は
永久にないであろう。
少壯(若者)はまこと努力すべきであり
年月が一度過ぎ行けば
どうして手繰り寄せられよう。
古人が秉燭に火を点けて
夜も遊ぶ事を考えたのは
実にわけがあってのことなのだな。
近頃は何を以て
自らの娯楽としておられるのかな?
また頗る著述などを
しておられるだろうか?
東を望みて悒え、
書信にて心情を叙べた」
(註釈)
曹丕の文章やっぱ好き。
「阮瑀は長逝し異物と化した」
とか、なかなか出てこない表現だ。
永遠への憧憬とか
薄氷のような繊細さがある。
陳寿はこの文言から
必要なとこ取捨選択して
本伝に載っけたわけか。
曹丕は、司馬懿に対しても
「いっときも心が休まらない
君と悩みを分かち合いたい」
って言ってたけど
呉質に対する手紙ではもっと
わかりやすく心情を吐露してるわね。




