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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第二十一、王粲伝
388/603

十二・註二十前、賢聖119/鍾会の怨恨

竹林の七賢、嵆康けいこう


逸民を志すも鍾会しょうかいに目をつけられ

非業の最期を遂げます。

12.

時又有譙郡嵇康,文辭壯麗,好言老、莊,而尚奇任俠。至景元中,坐事誅。


(訳)

当時、また譙郡に嵆康がおり

文辞は壮麗で

老荘について語る事を好んだが

奇矯をとうとぶ任侠であった。


景元年間に至ると

事件に連座して誅殺されてしまった。


(註釈)


嵆康も竹林の七賢です。


竹林の七賢は要するに

当時の代表的な変態七人衆って事です。



註20-1.

康字叔夜。案嵇氏譜:康父昭,字子遠,督軍糧治書侍御史。兄喜,字公穆,晉揚州刺史、宗正。喜爲康傳曰:「家世儒學,少有儁才,曠邁不羣,高亮任性,不脩名譽,寬簡有大量。學不師授,博洽多聞,長而好老、莊之業,恬靜無欲。性好服食,嘗採御上藥。善屬文論,彈琴詠詩,自足于懷抱之中。以爲神仙者,禀之自然,非積學所致。至於導養得理,以盡性命,若安期、彭祖之倫,可以善求而得也;著養生篇。知自厚者所以喪其所生,其求益者必失其性,超然獨達,遂放世事,縱意於塵埃之表。撰錄上古以來聖賢、隱逸、遁心、遺名者,集爲傳贊,自混沌至于管寧,凡百一十有九人,蓋求之於宇宙之內,而發之乎千載之外者矣。故世人莫得而名焉。」

虞預晉書曰:康家本姓奚,會稽人。先自會稽遷于譙之銍縣,改爲嵇氏,取嵇字之上山以爲姓,蓋以志其本也。一曰銍有嵇山,家于其側,遂氏焉。魏氏春秋曰:康寓居河內之山陽縣,與之游者,未嘗見其喜慍之色。與陳留阮籍、河內山濤、河南向秀、籍兄子咸、琅邪王戎、沛人劉伶相與友善,遊於竹林,號爲七賢。鍾會爲大將軍所昵,聞康名而造之。會,名公子,以才能貴幸,乘肥衣輕,賔從如雲。康方箕踞而鍛,會至,不爲之禮。康問會曰:「何所聞而來?何所見而去?」會曰:「有所聞而來,有所見而去。」會深銜之。大將軍嘗欲辟康。康旣有絶世之言,又從子不善,避之河東,或云避世。及山濤爲選曹郎,舉康自代,康荅書拒絶,因自説不堪流俗,而非薄湯、武。大將軍聞而怒焉。初,康與東平呂昭子巽及巽弟安親善。會巽淫安妻徐氏,而誣安不孝,囚之。安引康爲證,康義不負心,保明其事,安亦至烈,有濟世志力。鍾會勸大將軍因此除之,遂殺安及康。康臨刑自若,援琴而鼓,旣而歎曰:「雅音於是絶矣!」時人莫不哀之。



(訳)

嵆康けいこうは字を叔夜しゅくやという、


嵆氏譜を勘案すると、

嵆康の父・嵆昭けいしょうは字を子遠、

督軍糧治書侍御史とくぐんりょうちしょぎょしであった。


兄の嵆喜けいきは字を公穆こうぼく

晋の揚州ようしゅう刺史、宗正そうせいであった。


嵆喜の作った嵆康の伝にいう、


「家は世世儒学(を尊び)、

少くして俊才を有しており、

闊達さや豪邁ぶりは群を抜き、

高明で、勝手気ままに振る舞い、

名誉にこだわらず、

寛容で度量が大きかった。


学問については

師匠から伝授されていなかったが

博聞であり、成長してからは

老子・荘子の業を好み

物静かで無欲であった。


性向として※服食を好み、

(※仙薬を飲む事、道家の養生方法)

常に上等な薬を採取して用いていた。


文学や論文を善く綴り、

琴を弾いて詩を詠み、

自らの懐抱の中(胸の内)に

満足していた。


神仙とは先天的に備わるものであり

学問を積み重ねたとて

到れるものではないが、

理にかなった養生に至って

性命を尽くす事で

安期、彭祖の輩の若く(長寿)も

善く求めて得る事が出来る。

(という考えに基づき)

「養生篇」を著した。


自らを厚くする者は

その生命力を喪い、

その利益を求める者は

必ずその本性を失う事を承知して


超然として獨り達観し

遂には世事を放り出して

塵埃の表(俗世間)にて

心の赴くままに従った。


上古以来の聖人や賢者、隠逸、

遁心(一時の損害を避けようとした者)、

名を遺した者を撰録し

編集して伝・賛を作った。

混沌から管寧に至るまでおよそ百十九人、

蓋し宇宙の内にこれを求め

千年の外までこれを発するものである。


そのため、世間の人々は

名状する事ができなかった」


虞預ぐよの晋書にいう、

嵆康の家の本姓はけいであり、

会稽かいけいの人である。


祖先は会稽からしょう郡のちつ県へ遷り

嵆氏と改めた。

嵆の字は、山の上の部分を

(会稽の稽から)取り、姓としたもので

恐らくその本籍を表していたのだろう。


一説では、銍県に嵆山けいざんが有り

家がその側であったために

結局氏姓となったのだという。


魏氏春秋にいう、

嵆康は河内かだい山陽(さんよう)県に寓居し

彼と遊んだ者は一度も

その喜んだ顔や不機嫌な顔を

見た事がなかった。


陳留ちんりゅう阮籍げんせき河内かだい山濤さんとう

河南かなん向秀しょうしゅう、阮籍の兄の子阮咸(げんかん)

瑯琊ろうや王戎おうじゅうはいの人劉伶(りゅうれい)らと

互いに親善で、竹林にて遊んでおり

「(竹林の)七賢」と号された。


鍾会しょうかいは大将軍と昵懇であり

嵆康の名声を聞いて彼を訪ねた。


鍾会は名公(鍾繇)の子であり

才能によって貴ばれ、寵愛されていた。

※肥えた馬に乗り、軽裘を着て

(※軽裘肥馬=高貴な人物の例えに使われる)

まろうどや侍従は雲の若くであった。


嵆康はまさに箕踞ききょして

鍛冶をしている所であり

鍾会が至っても拝礼をしなかった。


嵆康は鍾会に問うた。


「何を聞いて来られ、

何を見て去られるのです?」


鍾会は言った。


「聞くところがあって来て

見るところがあって去るのだ」


鍾会はこの事を深く恨んだ。


大将軍は嘗て嵆康を召辟しようとしたが

嵆康は既に俗世を絶つ発言をしており、

一方で従子が不善であったため

避けて河東へと向かった。

世間を逃れたのだと云う者もいる。


山濤さんとう選曹郎せんそうろうとなるに及んで

嵆康を自身の代わりとして推挙した。

嵆康は返書にて拒絶し、そこで

自ら俗世に合流するに堪えられず

湯王・武王を甘く見ている

訳ではないと説いた。


大将軍はこの事を聞くと怒った。


当初、嵆康と、東平の呂昭りょしょうの子の呂巽りょそん

及び呂巽の弟の呂安りょあんは親善であった。


ちょうど呂巽は

呂安の妻の徐氏と姦淫しており、

しかも呂安を不孝だとして誣告し

彼を捕縛してしまった。


呂安は嵆康を引き出して証人に立てた。

嵆康の徳義は良心にそむかず

その事件について冤罪である事を証明し

お上に申し立てた。


呂安もまた至極烈しい気性を持ち

世を救う意思と能力を有していた。


鍾会は、大将軍に

この機会に嵆康を排除するように勧め

とうとう呂安及び嵆康は殺された。


嵆康は処刑に臨む際も自若としており、

琴を手に取って演奏し、慨歎して述べた。


「雅音はこれにて絶えるであろう!!」


当時の人で哀しまぬ者はなかった。


(註釈)

兄が弟の伝記書いてるって面白いわね。

班固はんこ班超はんちょう列伝書いてるようなもんか。

王隠伝では、虞預が

王隠の晋書をパクったって

書かれてました。

そこまで鵜呑みにしてないけど。


この王粲伝だけで

建安の七士

(孔融・王粲・劉楨・陳琳・阮瑀・徐幹・応瑒)


竹林の七賢

(山濤・阮籍・阮咸・嵆康・向秀・王戎・劉伶)


を全員押さえてるのはすごい。


嵆康も俗世間から離れて暮らしたかった系。

魏末期から西晋って、

エリートが讒言し合ってる世の中だから

頭のいい人ほど出世考えるの

バカらしくなっちゃうんだろうね。


ある時、嵆康の友人兄弟が

奥さんの不貞を巡ってトラブルに。

嵆康は証人として

友人のピンチを救おうとしますが、

彼を恨んでいた鍾会に

殺す口実を与えてしまうのでした。



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