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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第二十一、王粲伝
384/603

註十五・註十六、繁欽/路粹

註15.

典略曰:欽字休伯,以文才機辯,少得名於汝、潁。欽旣長於書記,又善爲詩賦。其所與太子書,記喉轉意,率皆巧麗。爲丞相主簿。建安二十三年卒。

(訳)

魏略にいう、

繁欽ばきんは字を休伯きゅうはく

文才と、弁辞の機知により

少くして汝南じょなん穎川えいせんで名声を得た。


繁欽は書・記に長じている一方で

詩・賦にも明るかった。


彼が太子に与えた書簡に

喉啭(楽器の演奏、音声)の意が

記載されているが

みな巧妙で美麗である。


丞相主簿となったが、

建安二十三年(218)に卒した。


(註釈)

音に対する註釈があり、

ハンキンじゃなくてバキンのようです。

タキザワバキン。


汝南郡と潁川郡は豫州です。

袁紹、袁術、荀彧、郭嘉、呂蒙らを輩出。


繁欽も

217年の疫病の影響で

死んじゃったのかな。



註16.

典略曰:粹字文蔚,少學於蔡邕。初平中,隨車駕至三輔。建安初,以高才與京兆嚴象擢拜尚書郎。像以兼有文武,出爲揚州刺史。粹後爲軍謀祭酒,與陳琳、阮瑀等典記室。及孔融有過,太祖使粹爲奏,承指數致融罪,其大略言:「融昔在北海,見王室不寧,招合徒衆,欲圖不軌,言『我大聖之後也,而滅於宋。有天下者何必卯金刀』?」又云:「融爲九列,不遵朝儀,禿巾微行,唐突宮掖。又與白衣禰衡言論放蕩,衡與融更相贊揚。衡謂融曰:『仲尼不死也。』融荅曰:『顏淵復生。』」凡説融諸如此輩,辭語甚多。融誅之後,人覩粹所作,無不嘉其才而畏其筆也。至十九年,粹轉爲祕書令,從大軍至漢中,坐違禁賤請驢伏法。太子素與粹善,聞其死,爲之歎惜。及即帝位,特用其子爲長史。魚豢曰:尋省往者,魯連、鄒陽之徒,援譬引類,以解締結,誠彼時文辯之儁也。今覽王、繁、阮、陳、路諸人前後文旨,亦何昔不若哉?其所以不論者,時世異耳。余又竊怪其不甚見用,以問大鴻臚卿韋仲將。仲將云:「仲宣傷於肥戇,休伯都無格檢,元瑜病於體弱,孔璋實自麤疏,文尉性頗忿鷙,如是彼爲,非徒以脂燭自煎糜也,其不高蹈,蓋有由矣。然君子不責備于一人,譬之朱漆,雖無楨幹,其爲光澤亦壯觀也。」

(訳)

典略にいう、

路粹ろすいは字を文蔚ぶんうつ、少くして蔡邕さいように学んだ。


初平年間、車駕に随って三輔さんぽへ至った。


建安の初め、高才を以って

京兆の厳象げんしょうとともに抜擢され

尚書朗に拝された。


厳像(厳象)は文武を兼ねており

転出して揚州ようしゅう刺史となった。


路粹はその後軍謀祭酒となり

陳琳ちんりん阮瑀げんうらとともに記室を掌った。


孔融に過失が有った際には

太祖は路粹に上奏させ、

承制して孔融の罪状を

指弾する事が幾度にも至った。

その大略にいう、


「孔融は昔日北海に在り

王室が不安定である事を見て

徒衆を招引して不軌を図らんと

『我は大聖(孔丘)の後裔であるが

宋に滅ぼされた。

天下を有する者がどうして

卯金刀(組み合わせると劉になる)で

ある必要があろう』と申しております」


また、こうも言った。


「孔融は九列を為しておりますが

朝廷の儀礼に遵わず、

頭巾をせずに微行して

宮掖を唐突(乱す)しました。


また、白衣の禰衡と

放蕩に言葉を交わして

禰衡と孔融は互いに

称揚し合っておりました。


禰衡は孔融に

『仲尼は死んでいない』と述べ、

孔融は

「顔淵もまた生きておる」と答えました」


およそ孔融に対しての

諸説はこれらの如くで、

字句は甚だ多かった。


孔融が誅殺された後

人は路粹の作した所を観て

その才を嘉さぬ者はなく

彼の筆を畏怖したのであった。


十九年に至って

路粹は転出して秘書令となり

大軍に従って漢中へ至ったが

禁令を違えて驢馬を安価で

購入しようとしたため、法に服した。


太子は兼ねてより路粹と親善であり、

彼の死を聞いて嘆惜した。

帝位に即くに及んで

特別に路粹の子を長史とした。


魚豢ぎょかんはいう、

過去の者を尋ね求めるに、

魯連ろれん(魯仲連)、鄒陽すうようの徒が

譬喩や類似の話を援引して

締結を解いているが、

実に彼の時代の文辞における

俊傑である。


今、王粲・繁欽・阮瑀・陳琳・路粹といった

諸人の前後の文旨を観覧するに

またどうして昔に及ばぬ事があろう。


彼らの論じぬ所は

時世が異なっていたからにすぎない。


余は一方で密かに

彼らが重用されぬ事を怪訝に思い、

大鴻臚の韋仲将に問うたが、

仲将はこう言っていた。


「仲宣(王粲)はふとっていて

愚直すぎるのが傷だ。


休伯(繁欽)は全く身を慎まない。


元瑜(阮瑀)は病がちで体が弱い。


孔璋(陳琳)は実際浅はかで見聞が狭い。


文尉(路粹)は頗る短気な性格だ。


かくの若くである彼らの欠点は

蝋燭で自らを焼け爛れさせるだけに

とどまらない。

彼らが高踏せぬ事には

蓋し、理由があるのだよ。


しかるに、君子は

一人に備わる事を責めたりはせぬ。

(人間に完璧である事を求めない)


これをたとえるなら朱漆であり

楨幹(中心となる存在)ではないにしろ

その光沢はやはり壮観である」



(註釈)

厳象げんしょう韋誕いたん禰衡でいこうがさりげなく再登場。


いずれも既に紹介しましたが

全員覚えてる方は立派な三国志マニアです。



魚豢ぎょかんは「典略」の作者らしいです。

建安年間の文人らしい事は

わかるんですが、

詳しい経緯一切不明。


王粲らは欠点があるけど

一芸に秀でていて見事だ。

というのが共通の見解かな。


ところで

王粲は「体つきが貧弱」って書かれてたのに

韋誕は「あいつはデブだ」って言ってるわね。


見た目激変レベルで太ったのか?


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