註十二、尊貴の服は卑賤の作
註12.
文士傳曰:楨父名梁,字曼山,一名恭。少有清才,以文學見貴,終於野王令。典略曰:文帝嘗賜楨廓落帶,其後師死,欲借取以爲像,因書嘲楨云:「夫物因人爲貴。故在賤者之手,不御至尊之側。今雖取之,勿嫌其不反也。」楨荅曰:「楨聞荊山之璞,曜元后之寶;隨侯之珠,燭衆士之好;南垠之金,登窈窕之首;鼲貂之尾,綴侍臣之幘:此四寶者,伏朽石之下,潛汙泥之中,而揚光千載之上,發彩疇昔之外,亦皆未能初自接於至尊也。夫尊者所服,卑者所脩也;貴者所御,賤者所先也。故夏屋初成而大匠先立其下,嘉禾始熟而農夫先嘗其粒。恨楨所帶,無他妙飾,若實殊異,尚可納也。」楨辭旨巧妙皆如是,由是特爲諸公子所親愛。其後太子嘗請諸文學,酒酣坐歡,命夫人甄氏出拜。坐中衆人咸伏,而楨獨平視。太祖聞之,乃收楨,減死輸作。
(訳)
文士伝にいう、
劉楨の父は名を梁、字を曼山、
一名を恭といった。
少くして清らかな才覚を有し、
文学を以って貴ばれ、
終には野王の令となった。
典略にいう、
文帝(曹丕)は嘗て
劉楨に廓落帯(鮮卑のベルト)を賜った。
その後、職人が死んでしまい
借り受けて象ろうと考え、
そこで文書で劉楨を嘲って言った。
「そもそも、物とは人に因って貴くなる。
故に、賤しい者の手に在ると
至尊の側には御されぬ。
今、これを取りあげたと雖も、
返さぬと嫌疑する事のなきように」
劉楨が答えていわく、
「楨は、荊山の璞は
元后の宝として曜き
隨侯の珠は衆士の
愛好する物として照り、
南垠の金は窈窕の首へ登り
鼲貂の尾は侍臣の幘に綴られると
聞いております。
この四つの宝物は
朽ちた石の下に伏せ、
泥土の中に潜んでおりました。
しかるに千載の上に光を揚げ
疇昔の外に彩りを発し、
またこれら全ても初めから
自ずより至尊と接する事は
出来なかったのです。
そもそも、尊き者が服する所は
卑しき者が修めた所であり、
貴き者の御する所は
賤しき者が先んじた所であります。
故に、大きな家屋が作られた際には
棟梁が先んじてその下へ立ち
嘉禾(稲穂)が初めて熟した際には
農夫が先んじてその粒を賞味します。
恨めしい事に、楨の帯びる所に
とりわけ精妙な装飾はなく、
もし実際に大変な貴重品であるならば
なお納めていただくべきと存じます」
劉楨の辞旨が巧妙である事は
みなかくの如くであり、
この事から特に
諸公子に親愛されていた。
その後、(文帝が)太子だった頃、
文学者たちを酒宴に招いて歓待し、
夫人の甄氏に命じて拝礼をさせた。
座中の衆人は皆伏せたが、
劉楨ひとりが直視しており、
これを聞いた太祖は劉楨を捕えた。
死罪を減刑され、労役を課された。
(註釈)
「物の価値というものは
身に付けてるヤツの尊さで決まる。
せっかくのいい品も
お前なんかが持ってたらウンコやで」
って、冗談でも言われたくねぇ。
さすがはブラックインテリ子桓さま。
「偉い人が身につけるものは
もとは卑しい人が作ったものですよ」
と、劉楨はうまく返した。
曹丕が酒宴に文学者を招いたとき
奥さんの甄氏に目通りをさせたが
みんなが頭を下げる中で
劉楨だけ奥さんガン見。
いくら美人でもこれはいけない。
もうちょっとで死刑になる所だった。
でも、「呉質別伝」だと
曹丕は呉質に対しては
郭皇后ガン見していいよ、って
言ってるんだよね。
曹丕の中で
呉質>>>劉楨
なのは明らかだけど
甄皇后>郭皇后なのか?




