二・註二、曹操に帰順す
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獻帝西遷,粲徙長安,左中郎將蔡邕見而奇之。時邕才學顯著,貴重朝廷,常車騎填巷,賔客盈坐。聞粲在門,倒屣迎之。粲至,年旣幼弱,容狀短小,一坐盡驚。邕曰:「此王公孫也,有異才,吾不如也。吾家書籍文章,盡當與之。」年十七,司徒辟,詔除黃門侍郎,以西京擾亂,皆不就。乃之荊州依劉表。表以粲貌寢而體弱通侻,不甚重也。表卒。粲勸表子琮,令歸太祖。太祖辟爲丞相掾,賜爵關內侯。太祖置酒漢濵,粲奉觴賀曰:「方今袁紹起河北,杖大衆,志兼天下,然好賢而不能用,故奇士去之。劉表雍容荊楚,坐觀時變,自以爲西伯可規。士之避亂荊州者,皆海內之儁傑也;表不知所任,故國危而無輔。明公定兾州之日,下車即繕其甲卒,收其豪傑而用之,以橫行天下;及平江、漢,引其賢儁而置之列位,使海內回心,望風而願治,文武並用,英雄畢力,此三王之舉也。」後遷軍謀祭酒。魏國旣建,拜侍中。博物多識,問無不對。時舊儀廢弛,興造制度,粲恒典之。
(訳)
献帝が西へ遷ると、
王粲は長安へ移り、
左中郎将の蔡邕が見えて
彼を立派なものと見做した。
当時、蔡邕の才覚・学識は顕著で
朝廷で尊重されており、
常に車騎が巷へ留まり
賓客で座席が満ちていた。
王粲が門にいると聞くと
履物を逆さまにして(大慌てで)
これを迎えた。
王粲がやって来ると
年齢はいまだ幼弱で
容姿は短小であったため
一座は盡くが驚いた。
蔡邕は言った。
「彼は王公の孫である。
異才を有し、吾の及ぶところではない。
我が家の書籍・文章の
盡くを彼に与えようと考えている」
十七歳で司徒に召辟され
詔によって黄門侍郎に除されたが
西京(長安)が擾乱しており、
いずれにも赴任しなかった。
そこで、荊州へ向かい劉表を頼った。
劉表は、
王粲の外見と中身が伴わず、
体つきが貧弱で
簡易(大雑把?)である事から
まるで重んじなかった。
劉表が卒すると
王粲は劉表の子の劉琮に
太祖に帰順するよう勧めた。
太祖は召辟して丞相掾とし、
関内侯の爵位を賜った。
太祖は漢水で酒宴を催した際、
王粲は觴賀を奉じて述べた。
「まさに今は袁紹が河北に起ち
大衆に依りて志は天下を兼呑しておりましたが
賢人を好むも用いる事が出来なかったために
奇士は去って行きました。
劉表は荊楚を雍容し、
座して時流の変化を観察して
自ら西伯(周の文王)の
規を為せるとしておりました。
乱を荊州へ避けた者はみな
海内の俊傑でございましたが
劉表は任じる所がわからなかったために
国が危ういというのに
輔弼する者がおりませぬ。
明公が冀州を平定された日、
下車されて即座にその武装兵を修繕され
当地の豪傑を収容されてこれを用いる事で
天下を横行しておられます。
江・漢(荊州)を平定するに及んで
当地の賢者や俊才を引き入れて
彼らを列位に配置され、
海内を回心させ、風化を望み
統治を願われるように仕向けられ
文武をともに用いられ
英雄が力を尽くしております。
これこそ、※三王の挙動です」
(※夏・殷の湯王・周の武王)
のちに軍謀祭酒に遷った。
魏が建国された後は侍中を拝した。
博学多識で、
質問に答えられないという事がなかった。
当時は旧式の儀礼が
廃されたり弛められていたが、
制度が刷新されるにあたって
王粲が常にこれを掌った。
(註釈)
王粲は見た目がかなり悪いみたいですね。
少なくとも蔡文姫の父ちゃん、
蔡邕からはめっちゃ評価されていた。
同じ兗州人でもあったし。
蔡邕は董卓に目をかけられていて
その亡骸に縋って泣いていた事から
怒った王允に殺されたことは
演義の9回に出てきた通りです。
董卓死後のいざこざで
長安がしっちゃかめっちゃかになると
王粲は動乱を荊州に避けた。
けど見た目がヒョロかったので
劉表からの評価は低かった。
甘寧と禰衡は
手に余って黄祖に預けちゃうし、
王粲は見た目がアレだから敬遠してるし
劉表って毎回節穴ヤローみたいに書かれてるよね。
統治者として準一級のものは
あると思うんだけど。
註2.
臣松之曰:貌寢,謂貌負其實也。通侻者,簡易也。
(訳)
わたくし松之の考え、
「貌寢」とは、容貌が
その実質に負いている事を謂う。
「通侻」とは簡易である。
(註釈)
この部分のことね↓
「表以粲貌寢而體弱通侻,不甚重也」
そのくだり、
全然意味わかんなかったからありがたい。
「簡易」は大雑把ってことかしら。
こういう字義についての注釈は
裴松之先生には珍しいです。
陳寿の時代(3世紀後半)と
裴松之の時代(5世紀)は
いちいち断るほどには
文章の形態が変わってないから、
だから他の書物を引用して
陳寿の簡潔な文章を
補足する形に全力を注げた。
って、筑摩三国志の巻末にあった気がします。
ことばの注釈ではなく
ことがらの註釈をするのが裴松之先生。




