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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十五、賈逵伝
369/603

註十一後、楊沛

続いて、同じく魏略から楊沛伝。

註11-3.

杨沛字孔渠,冯翊萬年人也。初平中,爲公府令史,以牒除爲新郑長。興平末,人多饑窮,沛课民益畜乾椹,收幪豆,阅其有餘以补不足,如此积得千餘斛,藏在小仓。會太祖爲兗州刺史,西迎天子,所將千餘人皆無粮。过新郑,沛謁見,乃皆進乾椹。太祖甚喜。及太祖辅政,遷沛爲長社令。時曹洪宾客在縣界,徵調不肯如法,沛先挝折其脚,遂杀之。由此太祖以爲能。累遷九江、東平、乐安太守,並有治迹。坐與督軍爭斗,髡刑五歲。输作未竟,會太祖出征在谯,聞鄴下颇不奉科禁,乃发教选鄴令,當得严能如杨沛比,故沛從徒中起爲鄴令。已拜,太祖見之,問曰:「以何治鄴?」沛曰:「竭尽心力,奉宣科法。」太祖曰:「善。」顾謂坐席曰:「諸君,此可畏也。」赐其生口十人,绢百匹,既欲以励之,且以报乾椹也。沛辭去,未到鄴,而軍中豪右曹洪、刘勋等畏沛名,遣家(驰骑)〔骑驰〕告子弟,使各自检敕。沛爲令數年,以功能轉爲护羌都尉。十六年,馬超反,大軍西讨,沛随軍,都督孟津渡事。太祖已南过,其餘未毕,而中黄門前渡,忘持行轩,私北還取之,從吏求小船,欲独先渡。吏呵不肯,黄門與吏爭言。沛問黄門:「有疏邪?」黄門云:「無疏。」沛怒曰:「何知汝不欲逃邪?」遂使人捽其头,與杖欲捶之,而逸得去,衣帻皆裂坏,自诉于太祖。太祖曰:「汝不死爲幸矣。」由是声名益振。及關中破,代張既领京兆尹。黄初中,儒雅並進,而沛本以事能見用,遂以議郎冗散里巷。沛前後宰歷城守,不以私计介意,又不肯以事贵人,故身退之後,家無餘积。治疾於家,借舍從兒,無他奴婢。後占河南(夕)陽亭部荒田二顷,起瓜牛庐,居止其中,其妻子冻饿。沛病亡,鄉人親友及故吏民爲殡葬也。

(訳)

楊沛ようはいは字を孔渠こうきょ馮翊ひょうよく万年(ばんねん)県の人である。


初平年間(190〜193)に

公府令史となり、

文書を以て除されて新鄭しんていの長となった


興平年間(194〜195)の末に

人民の多くが飢餓で窮乏すると

楊沛は民衆に乾燥したくわのみ

どんどん蓄え、野生の豆を

収穫するように課して

その有り余った分を検閲して

不足している所を補った。


かくの如くにして

千余斛を蓄積し得ると

小さな蔵に貯蔵した。


そんな折に太祖がえん州刺史となって

西へ天子を迎えたが、

率いていた千人余りは

皆食糧を持っていなかった。


新鄭を通過した際に楊沛は謁見し、

そこで皆へ乾燥した椹を進上すると

太祖は甚だ喜んだ。


太祖が政治を補佐するようになると

楊沛は長社の令となった。


この時、曹洪そうこうの賓客が

県の界域に在ったが、法律通りの

調の徴収を受け入れなかったため

楊沛は先ずその脚を叩き折って

遂には殺してしまった。


この事により、

太祖は楊沛を有能であると見なした。


九江きゅうこう東平とうへい楽安がくあんの太守に累遷し

揃って治績があった。


督軍との争いに巻き込まれて

髡刑五年となった。


輸作(犯罪の労役)が終わらぬうち

ちょうど出征した太祖がしょうにおり、

鄴の下で禁則を奉じぬ者が多いと聞いて

そこで教勅を発して鄴の令を選ばせた。


厳格さや能力において

楊沛と比肩するが如き者を得ようとし、

そのために楊沛を

囚徒の中から起用し、鄴の令とした。


拝領した後、太祖はこれと見え、言った。


「何を以て鄴を治めるね?」


楊沛は言った。


「心と力を尽くして科と法を奉じます」


太祖は「よし」と言った。


座席を振り返って言うよう、


「諸君、彼を畏れ敬うべきだぞ」


その生口(奴隷、または捕虜を指す)十人、

絹百匹を下賜し、

楊沛を励ますとともに

乾燥した椹(の恩に)

報いようとしたのであった。


辞去した楊沛が鄴まで至らぬうち、

軍中の豪右である曹洪や劉勲りゅうくんらは

楊沛の威名を畏れ、

家人に騎馬を馳せさせて

子弟らにそれぞれ

自ずから身を慎むように告げた。


楊沛が令となって数年で

功績と能力を以て

転任して護羌ごきょう都尉といとなった。


十六年(211)、馬超ばちょうそむ

大軍が西方の討伐に向かうと

楊沛は従軍し、孟津もうしんの渡河に関して

すべてを監督した。


太祖が南を通過した後、

その余勢が渡り終えぬうちに

中黄門ちゅうこうもんが先に渡ったが、

行軒(高貴な者を乗せる車)

を持ってくるのを忘れており、

私的に北へと戻って

これを取ってこようと考え、

吏人に小舟を求めて

独りで先に渡ろうとした。


吏人は呵叱して肯んじず

黄門と吏人は言い争った。


楊沛が黄門に

「疏(手形)はあるのか」と問うと

黄門は「疏はない」と答えた。


楊沛は怒って言った。


「どうして汝が

逃げようとしていないとわかろう」


かくて人にその頭を掴ませると

仗でこれを打ち据えようとしたが

免れ得て去って行った。


(黄門の)

衣服や帻は全て裂けてしまっており

太祖に直訴すると、

太祖はこのように言った。


「汝が死ななかった事は幸いじゃな」


これにより、名声はますます振るった。


関中が破れるに及んで

張旣ちょうきに変わって京兆尹けいちょういんを拝領した。


黄初こうしょ年間(220〜226)に

儒雅(優れた儒者)は揃って昇進したが、

楊沛は本来仕事の有能さで用いられており

結局は議郎として

里巷りこうで閑散と過ごした。


楊沛は前後に渡り城守を歴任したが

私的な計らい(個人の利益)は意に介さず

一方で貴人に事えることも

肯んじなかったために

身を退いた後は家に余財が無かった。


家で病疾を治療し

官舎から従者となる小児を借りたが

他に奴婢は無かった。


後に河南かなん

夕陽亭(几陽亭?)のべる

荒田二頃を占有する事になり

瓜牛盧(蝸牛の殻のような小さな家)を

建てて、その中で起居したが

楊沛の妻子は飢え、凍えていた。


楊沛が病で亡くなると

郷里の者や親族、友人、及び

かつての官吏や人民が

葬儀と埋葬を行った。


(註釈)

楊沛。

劉璋りゅうしょう配下の楊懐ようかい高沛こうはいと紛らわしい名前マン。


とかく法に厳格な印象で、

違反者の足をブチ折るところは

賈逵とよく似ています。


曹洪そうこうといえば曹操の身内なのに

物怖じしないあたり

若い頃の曹操みたい。

シンパシーを感じてたかもしれません。


また、曹洪と一緒に軍の有力者として

劉勲りゅうくんの名前が挙がってますが、

おそらく、元袁術配下のあの劉勲です。


孫策にボコられたあと、

曹操のもとに来てたのかー。


己の利益を全く考えない楊沛は

曹操から曹丕に代替わりすると

閑職に追いやられてしまい

寂しい晩年を送る事になった。


楊沛と賈逵は似ていたけど

曹丕からの評価は割れたなぁ。


戦闘 ★★★★★ 5

戦略 ★★★★★ 5

内政 ★★★★★★★ 7

人格 ★★★★★★ 6


こういう人が今の世にも欲しい!


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