註十一中、李孚
魏略で賈逵と一緒の巻に載っている
李孚列伝です。
当初は袁尚の配下だったもよう。
註11-2.
孚字子宪,钜鹿人也。興平中,本郡人民饑困。孚爲諸生,當种薤,欲以成计。有從索者,亦不與一茎,亦不自食,故時人謂能行意。後爲吏。建安中,袁尚领冀州,以孚爲主簿。後尚與其兄谭爭斗,尚出軍詣平原,留别驾审配守鄴城,孚随尚行。會太祖圍鄴,尚還欲救鄴。行未到,尚疑鄴中守備少,復欲令配知外動止,與孚議所遣。孚答尚言:「今使小人往,恐不足以知外内,且恐不能自達。孚请自往。」尚問孚:「當何所得?」孚曰:「聞鄴圍甚坚,多人則觉,以爲直當將三骑足矣。」尚從其计。孚自选溫信者三人,不语所之,皆敕使具脯粮,不得持兵仗,各给快馬。遂辭尚来南,所在止亭傳。及到梁淇,使從者斫問事杖三十枚,系著馬邊,自著平上帻,將三骑,投暮詣鄴下。是時大將軍雖有禁令,而刍牧者多。故孚因此夜到,以鼓一中,自稱都督,歷北圍,循表而東,從東圍表,又循圍而南,步步呵责守圍將士,随轻重行其罚。遂歷太祖營前,径南过,從南圍角西折,當章門,復责怒守圍者,收缚之。因開其圍,驰到城下,呼城上人,城上人以绳引,孚得入。配等見孚,悲喜,鼓譟稱萬歲。守圍者以狀聞,太祖笑曰:「此非徒得入也,方且復得出。」孚事讫欲得還,而顾外圍必急,不可復冒。謂己使命當速反,乃阴心计,请配曰:「今城中谷少,無用老弱爲也,不如驱出之以省谷也。」配從其计,乃復夜简别得數千人,皆使持白幡,從三門並出降。又使人人持火,孚乃無何將本所從作降人服,随辈夜出。時守圍將士,聞城中悉降,火光照曜。但共觀火,不復视圍。孚出北門,遂從西北角突圍得去。其明,太祖聞孚已得出,抵掌笑曰:「果如吾言也。」孚比見尚,尚甚欢喜。會尚不能救鄴,破走至中山,而袁谭又追击尚,尚走。孚與尚相失,遂詣谭,復爲谭主簿,東還平原。太祖進攻谭,谭戰死。孚還城,城中雖必降,尚擾亂未安。孚权宜欲得見太祖,乃骑詣牙門,稱冀州主簿李孚欲口白密事。太祖見之,孚叩头謝。太祖問其所白,孚言「今城中强弱相陵,心皆不定,以爲宜令新降爲内所识信者宣傳明教。」公謂孚曰:「卿便還宣之。」孚跪请教,公曰:「便以卿意宣也。」孚還入城,宣教「各安故業,不得相侵陵。」城中以安,乃還报命,公以孚爲良足用也。會爲所間,裁署冗散。出守解長,名爲严能。稍遷至司隶校尉,時年七十餘矣,其於精断無衰,而术略不損於故。終於陽平太守。孚本姓冯,後改爲李。
(訳)
李孚は字を子宪(憲)、鉅鹿の人である。
興平年間(194〜195)に
本郡の人民が飢餓で困窮した。
李孚は諸生(学生)で、薤を栽培して
生計を成そうとしていた。
やって来て求める者があっても
またひと茎も与える事はなく
一方で自分でも食べなかったために
当時の人は、意思を履行する
(初志を貫徹する)事ができる者だと謂った。
建安年間(196〜220)、
袁尚は冀州を領有すると
李孚を主簿とした。
その後、袁尚とその兄の袁譚が
(跡目を)争奪するようになると、
袁尚は軍を出撃させて平原を詣で、
別駕の審配を留めて鄴城を守らせた。
李孚は袁尚に随行した。
ちょうど太祖が鄴を包囲したので
袁尚は引き返して鄴を救援しようとした。
いまだ到着せぬうち、袁尚は
鄴中の守備が少ない事を危疑し
再度審配に外部の動静を知らせんとして
李孚と派遣する所について協議した。
李孚が袁尚に答えて言うよう、
「今小人を使いに行かせれば、
恐らくは内外を知らせるに不足の上
自ずと到達する事も出来ぬでしょう。
孚自らに行かせてくださいませ」
袁尚は李孚に問うた。
「何が欲しいのだ」
李孚は言った。
「聞けば鄴の包囲は甚だ堅固だそうで、
多人数では則ち悟られます。
三騎を率いれば十分です」
袁尚はその計略に従った。
李孚は自ら
温健で信頼出来る者を三人選ぶと、
之く所を語らずに
全員に脯糒(保存食)を具えさせ
兵装を持たぬように勅語して
それぞれに駿馬を支給した。
かくて袁尚に辞去して南へ向かい
所在の亭傳(宿場)にて休止した。
梁淇に到るに及んで
従者に問事の杖三十枚を切らせて
馬のそばに繋げると、
自らは平上帻を着けて
三騎を率い、暮に鄴の城下へ至った。
この時、大将軍の禁令が有ったと雖も
草を刈って放牧している者が多かったため
李孚はこれに乗じて夜に到った。
一度の鼓譟の中、自ら都督を称して
北側の包囲を通過し
表識を循って東へ、
東側の包囲の表識に従い
今度は囲みを循って南へ、
歩を進めながら
囲みを守る将士を呵責し
軽重に従いてその罰を執行した。
かくて太祖の陣営の前を通過し
真っ直ぐ南を過ぎて
南側の包囲の角に従って
西へ曲がり、章門に突き当たると
再び守衛する者を責譲して怒り、
これを捕縛した。
城下へ馳せ到って
城上の者を呼ばわると
城上の者は縄を以て引き上げたので
李孚は城内へ入る事が出来た。
審配らは李孚と見えて
悲喜交々の様子で、
鼓譟して万歳を称えた。
守衛者が状況について上聞すると
太祖は笑って言った。
「そいつ(李孚)は徒らに
入城したわけではあるまい。
今にもう一度出てくるぞ」
李孚は事が済んだので
帰還しようとしたが、
一顧すれば外の囲みが
間違いなく危急であろう事から
再び冒す事はできないと考えた。
己の使命からいって
速く反らねばならず、
そこで密かに内心で計り
審配に願い出て述べた。
「今、城中の穀物は少なく
老弱の者に用いる余裕はありません。
駆り出して(追い出して)
糧秣を節約するに
越した事はありませぬ」
審配はその計に従い、
かくて再び簡便的に部別して
数千人を得、全員に白旗を持たせると
三つの門に従いて
一斉に降伏に出向かせた。
一方で人を遣わして
人々に火を持たせると、
李孚はそこで何事も無かったように
本来従えていた者たちに
降伏者の服を作らせて
人々に随って夜間に脱出した。
この時、鄴を包囲していた将士は
城中が悉く投降すると聞いており、
火光が燦然としていたが
ただ一緒になって火を眺めるばかりで
今一度囲みを見ようとはしていなかった。
李孚は北門を出、
遂に西北の角に従って
囲みを突破して去る事が出来た。
その明朝、太祖は
李孚が已に脱出し得たと聞くと
掌を打って笑いながら言った。
「果たして吾の言う通りであったか」
李孚はこうして袁尚に見え、
袁尚は甚だ欣喜した。
そんな折、袁尚は
鄴を救う事が出来ずに
敗走して中山へ至り、
袁譚もまた袁尚を追撃してきたので
袁尚は逃げた。
李孚と袁尚は互いを見失い
かくて袁譚を詣でた李孚は
再び袁譚から主簿に任じられて
東の平原へ帰還した。
太祖は袁譚のもとへ進攻し、
袁譚は戦死した。
李孚が(平原)城へ戻ると
城中では降伏が決定していたが
なお擾乱は落ち着かなかった。
李孚はとりあえず
太祖に見えようと考え、
そこで騎馬で牙門を詣で
冀州の主簿である李孚が
内密の事を口頭で建白したいと称した。
太祖がこれに見えると
李孚は口頭して謝した。
太祖がその建白する所を問うと
李孚は言った。
「今、城中では強弱が陵し合い
皆の心持ちは安定しておりません。
新たに降ったうちで
内部にて識られ、信頼されている者に
明確なるご教示の宣布を
命じられるべきかと存じます」
公は李孚に言った。
「(ならば)卿がただちに戻りて
それを宣べよ」
李孚が跪いて教えを請うと
公は言った。
「便宜を卿の意志によって宣べよ」
李孚は帰還して城へ入ると
教示を述べた。
「それぞれもとの業務に落ち着き
互いに侵略する事のなきように」
城中が落ち着くと
そこで戻って復命し、公は李孚を
良く用いるに足る男だと考えた。
そんな折に誹謗を為す所があり
僅かに閑職に署された。
転出して解の長官を代行したが
厳しく取り締まる事が出来るとの
名声を為した。
だんだん昇進して司隷校尉まで至り
当時の年齢は七十余であったが
その精妙さ・裁断力に衰えは見られず
謀略も従来から損なわれていなかった。
終には平陽に於いて太守となった。
李孚の本姓は馮であり
後に改姓して李氏となった。
(註釈)
李孚はゲームの三國志でたまに見ますが
袁尚の配下だったのね。
ちゃんと説明読んどきゃよかった。
審配はこの時の鄴死守っぷりが
語り草になっているのですが
李孚の働きも大きかったのかな。
鄴城にやっとの事で
たどり着いた李孚でしたが、
今度は袁尚のもとまで
帰還しなければなりません。
曹操は話を聞いて
もう一度李孚が出てくると
予想していましたが、
李孚は策を巡らし
戦力にならない人員を降伏させて
それに紛れて脱出しました。
あったまいー!
戦闘 ★★★★★ 5
戦略 ★★★★★★★ 7
内政 ★★★★★★ 6
人格 ★★★★★★ 6
70過ぎても衰えぬ智謀、
カッコいいですね。




