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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十五、賈逵伝
359/603

註四・註五、憤激の梁道、惜別の雷鼓

註4.

魏略曰:太祖欲征吳而大霖雨,三軍多不原行。太祖知其然,恐外有谏者,教曰:「今孤戒严,未知所之,有谏者死。」逵受教,謂其同寮三主簿曰:「今實不可出,而教如此,不可不谏也。」乃建谏草以示三人,三人不获已,皆署名,入白事。太祖怒,收逵等。當送狱,取造意者,逵即言「我造意」,遂走詣狱。狱吏以逵主簿也,不即著械。謂狱吏曰:「促械我。尊者且疑我在近职,求缓於卿,今將遣人来察我。」逵著械適讫,而太祖果遣家中人就狱视逵。既而教曰:「逵無恶意,原復其职。」始,逵爲諸生,略览大義,取其可用。最好春秋左傳,及爲牧守,常自课读之,月常一遍。逵前在弘农,與典农校尉爭公事,不得理,乃发愤生瘿,後所病稍大,自启原欲令医割之。太祖惜逵忠,恐其不活,教「謝主簿,吾聞‘十人割瘿九人死’」。逵猶行其意,而瘿愈大。逵本名衢,後改爲逵。

(訳)

魏略にいう、

太祖は呉を征伐しようとしたが

大変な霖雨りんうで、三軍の多くが

心情として行きたがらなかった。


太祖はその事を知ると

外部から諌める者が

出てくる事を恐れて、教勅した。


「今、孤は戒厳しておるが

いまだ之く所は知れておらぬ。

諌める者があれば殺す」


賈逵は教勅を受けると

その同僚である三人の主簿に対して

こう謂った。


「今、実際に出撃は出来ぬが

教勅はかくの如くだ。

(殺すと言ってるけど)

お諌めせずにはおれぬな」


かくて諌言の草稿を建てて

三人に示し、三人は已むを得ずに

全員で署名した。

賈逵は入りて事を建白した。


太祖は怒り、賈逵らを捕えてしまった。


監獄へ送るに当たって

発案者が取り調べられたが

賈逵は即座に

「私の案です」と言った。


かくて、走って監獄を詣でた。


獄吏は、賈逵が主簿である事から

すぐには枷を嵌められなかった。


賈逵が獄吏に対して言うよう、


「早く我に枷を付けよ。


尊者(偉い人=曹操)は

我が側近の職に在る事から

卿に(枷を)緩めるように

要求したと疑うだろう。


今にも我の査察に

遣わされた人がやって来るはずだ」


賈逵がちょうど

枷を付け終えた所で

太祖は果たせるかな

家中の人を獄中へ遣って

賈逵の視察に就かせた。


その後の教勅にこうある。


「賈逵には悪意が無い、

その役職に復帰させる」


当初、賈逵が諸生であった頃

おおよその大義を観覧して

その用いるべき点を押さえた。


最も好んだのは「春秋左氏伝」で、

牧守(州牧・郡太守)となるに及んでも

常に自らに課してこれを読み、

一ヶ月に一度読破するのが常であった。


賈逵が以前弘農にあった際

典農校尉と公事を争って

理める事が出来なかった。


かくて憤りを発して瘤を生じてしまい、

後に患部がだんだん大きくなっていき、

賈逵は自ら陳情して

医者に瘤を割かせようとした。


太祖は賈逵の忠義を惜しみ

彼が生きてはおれぬのではと恐れ

そこで、戒めた。


「主簿には悪いのだが、

吾は、十人が瘤を割けば

九人は死ぬと聞いているぞ」


賈逵はなおもその意思を断行し

(手術したけど失敗)

瘤はますます肥大化した。


賈逵の本名はであり

後に逵と改めた。


(註釈)

曹操にも言うべきことは言う。


「諌めたら殺しちゃうからね」

って言われてても諌める。


案の定逮捕された賈逵は

自分から監獄へダッシュした。


獄吏は主簿相手だから

枷を嵌めるのを躊躇ったけど、賈逵は

「早くやれよ、お前のことを買収して

枷を外してもらったと思われるだろ」

と迫った。強引に。


典農校尉と論争になった時

賈逵の怒りがコブになって現れた。

怒れば怒るほどコブは大きくなる。


体のどこにできたのか言ってないけど

まあ、背中かなぁ。

頭頂部とかだったら、やだな。


范増も項羽が劉邦側の離間にハマった時

憤りでコブができたと書いてある。

剛直の士に見られる現象。


賈逵はコブの手術を断行した。

曹操が「9割がた死ぬからやめろ」

と言ってもきかない。結局除去できなかった。

書かれてないけど、医者にも

「何ミスってんだこの野郎」とキレたと思う。


賈逵は自分の気持ちに正直だ。

グッと内に溜め込まない、

納得行かなければ

その都度感情を爆発させる。

仲良しでも権力者でも御構い無しに。


「八方美人」の対義語は「賈逵梁道」である。


不正不義は賈逵が懲らしめてくれる、

周囲はビシビシと引き締まる。

糾弾されても、賈逵は

自分一人で責任取ろうとしてる。


だから曹操は「世の中の太守を

みんな賈逵にできたらいいな」

と言ったのかもしれない。

上層部に悪影響が全然なさそう。


衢は「みち」という意味、

逵は「大きなみち」という意味ですが、

コブがどんどん肥大化していったから

「道が大きくなった!」というニュアンスに

改名したっていうのか?


漢に代わる者「当塗高みちにあたりてたかい」は

曹丕や公孫述や袁術ではなく

意外と賈逵の事だったりしてね。

結構あり得そうな話じゃない?


註5.

魏略曰:時太子在鄴,鄢陵侯未到,士民颇苦劳役,又有疾疠,於是軍中骚動。羣寮恐天下有變,欲不发丧。逵建議爲不可秘,乃发哀,令内外皆入临,临讫,各安叙不得動。而青州軍擅击鼓相引去。眾人以爲宜禁止之,不從者讨之。逵以爲「方大丧在殡,嗣王未立,宜因而抚之」。乃爲作長檄,告所在给其廪食。


(訳)

魏略にいう、

当時、太子(曹丕)は鄴におり、

鄢陵侯(曹彰)はまだ到着していなかった。


士民が頗る労役に苦しむ一方で

疫病が発生しており

こうして軍中に騒動が起こった。


群寮は天下に変事が起きるのを恐れて

(曹操の)喪を発そうとはしなかった。


賈逵は秘匿すべきでないと建議し

そこで喪を発表して

内外の者全員を入朝、参列させた。


臨席させた後は、各々を

安叙(ゆったりとして安らか)とさせて

妄りに動くことを禁じた。


しかるに青州軍は

欲しいままに太鼓を打ち鳴らして

互いに引き去っていった。


衆人はこれを禁止して

従わなければ討つべきであるとした。


賈逵の考えとしては、


「今はまさに大きな喪、もがりの最中で

後継の王もいまだ立てられておらぬ。

ここは彼等を慰労するべきであろう」


そこで、長い檄文を作して

所在にてその地の廪食を

供給すると告知した。


(註釈)

青州黄巾吸収して28年も経つけど、

まだ青州兵の概念はあるんだ。


俺たちは曹操に従っているのであって

漢や魏に従ってるんじゃないんだ

って意思表示かな。

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