二、二千石よみな梁道たれ
2.
後舉茂才,除渑池令。高幹之反,張琰將舉兵以应之。逵不知其谋,往見琰。聞變起,欲還,恐見執,乃爲琰画计,如與同谋者,琰信之。時縣寄治蠡城,城堑不固,逵從琰求兵脩城。諸欲爲亂者皆不隐其谋,故逵得尽诛之。遂脩城拒琰。琰敗,逵以丧祖父去官,司徒辟爲掾,以議郎参司隶軍事。太祖征馬超,至弘农,曰「此西道之要」,以逵领弘农太守。召見计事,大悦之,謂左右曰:「使天下二千石悉如贾逵,吾何憂?」其後发兵,逵疑屯田都尉藏亡民。都尉自以不屬郡,言语不顺。逵怒,收之,數以罪,挝折脚,坐免。然太祖心善逵,以爲丞相主簿。太祖征刘備,先遣逵至斜谷觀形勢。道逢水衡,载囚人數十车,逵以軍事急,辄竟重者一人,皆放其餘。太祖善之,拜谏議大夫,與夏侯尚並掌軍计。太祖崩洛陽,逵典丧事。時鄢陵侯彰行越骑將軍,從長安来赴,問逵先王玺绶所在。逵正色曰:「太子在鄴,國有储副。先王玺绶,非君侯所宜問也。」遂奉梓宫還鄴。
(訳)
その後、茂才に推挙されて
黽池の令に除された。
高幹が反逆すると、張琰が兵を挙げて
これに応じようとした。
賈逵はその謀を知らずに
往きて張琰と見えた。
変事が起こったと聞いて
賈逵は帰ろうとしたが、
執われるのを恐れており、
そこで張琰のために画策して
同じ考えを抱いているように見せかけると
張琰はこれを信じた。
当時、県は蠡城を治所としていたが、
城の濠は堅固ではなく、
賈逵は張琰に従って
城を修繕する為の兵を求めた。
反乱を起こそうとしている者達は
みなその謀略を隠さなかったために
賈逵は彼らの尽くを誅滅できた。
かくて、城を修繕して張琰を拒いだ。
張琰が敗れると、賈逵は
祖父の喪によって官職を去った。
司徒は召辟して掾とし、
議郎を以て司隷の軍事に参画した。
太祖が馬超の征伐に弘農へ至ると
「ここは西道の要じゃ」と述べて
賈逵に弘農太守を拝領させた。
召し出して事を計らせると、
太祖は大いにこれに悦んで
左右の者に対して謂った。
「天下の二千石(=郡太守)を
悉く賈逵の如くにさせれば
吾は何を憂える事があろう?」
その後、兵が徴発された際に
賈逵は屯田都尉が逃亡した民を
匿っているのではないかと疑った。
都尉は、自身が(弘農)郡には
所属していないとして
不順(反抗的)な言辞を述べた。
賈逵は怒り、彼を捕えると
その罪状を数え上げて責め、
脚を叩き折ってしまい、
坐罪して免官となった。
しかるに太祖は
内心でこれを善しとして
彼を丞相主簿とした。
太祖が劉備を征伐すると
先ず賈逵を斜谷へ至らせて
形勢を観察させた。
道すがら水衡(都尉)に逢い、
囚人数十名が車に載(乗)っていたが、
賈逵は軍事が緊急のものである事から
すぐに重罪人の一名だけ残して
残りは全員釈放した。
太祖はこれを善しとして諌議大夫に拝し、
夏侯尚と一緒に軍の計略を掌らせた。
太祖が洛陽に崩御すると
賈逵は葬儀を取り仕切った。
この時、鄢陵侯の曹彰が
越騎将軍を兼任しており、
長安へとやって来るに従って
賈逵に先王の璽綬の所在を問うてきた。
賈逵は顔色を正して述べた。
「太子(曹丕)が鄴におわし
国家には副君がおります。
先王の璽綬は、君侯の
問われるべき所ではございません」
かくて梓官を奉じて鄴へ帰還した。
(註釈)
張琰戦、馬超戦、劉備戦、曹操の葬儀で
この説でだいぶ話進みました。
高幹の反乱は、205年。
曹操が烏丸征伐に出かけた隙を狙った。
荀彧の兄が予見して鎮圧する一方で
賈逵は乗っかろうとした奴らを潰した。
対馬超、潼関の戦は211年。
曹操は要衝の弘農郡の統治を
賈逵に任せた。
弘農郡は黽池県を含んでいる地域だから
黽池令やってて馴染みのある賈逵に
任せるのは、ちょうどいい人選。
賈逵は、流民を匿っている都尉の
反抗的な態度にキレて
彼の脚をブチ砕いてしまった。
おっかなすぎ。
この件で仕事をクビになったが
曹操からはいたく評価された。
曹操は賈逵を任命した際に
「太守がみんな賈逵みたいになったら
安泰だよなぁ」と漏らしていたが、
不正を赦さない激烈さがイイのかな。
彼みたいな人が行政の長なら
怖いけど、周辺はビシビシ引き締まるよね。
劉備戦、建安年間の終わり頃。
夏侯尚と作戦参謀に。
囚人の護送車にツッコミを入れた。
戦時中に人的資源を持ってくな。
曹操が死ぬと賈逵が喪主をつとめた?
馬超戦まで絡みがないのに、
そんなに重鎮のポジションだったっけ。
これが曹彰の立場だったら
「お前に言われる筋合いはない」
と言いたくなる。
賈逵の息子の賈充は
三国志が編纂された当時の
一大権力者なので
忖度が見え隠れしている気がします。
「賈逵は権力者にも物怖じしない
豪胆さを持ち、国の枢要をも
掌るレベルのキーマンなのだ」
と書かされてる感。




